椿

うすらい

 

 これは私が第六連隊にいたころの話ですが、椿を吐く男がいたんです。椿というのはえっと……そうです。花の椿です。

 

 彼が入営してきたときのことは今でも鮮明に覚えております。私は当時、伍長勤務上等兵をやっていて、新しく入ってきた二等兵の面倒を見ることが多かったですから。中でも彼のことはよく思い出せます。忘れろ、という方が難しい奴でした。

 

 彼は、とても二十には見えませんでした。せいぜい十六、七くらい、髪を刈り上げていなければ少女といっても通りそうな、軍人には極めて不向きな容貌をしていました。おまけに上官がいない間は常に外套を羽織っていて、見るからに身体が弱そうでした。十七からでも志願すれば徴兵検査は受けられたそうですが、血の蒼く透ける白い頬を持った彼が志願するとも思えませんでしたから、おそらく二十は超えていたのでしょう。徴兵検査ももう少しで乙になるところだったと教えてくれました。

 

 名前を確か竹見といったと思います。彼は軍人ということを考慮に入れなくともひ弱そうな外見でしたから、当然のように「しごき」の憂き目に遭っていました。

 

 例えば、竹見が銃の手入れをやっておりますと「全然なっていない」だの「少尉殿の弟だからといい気になるな」だの何かと言いがかりをつけて、終いに頬を平手で張ることなどはもはや一連の流れとなっていましたし、便所に連れ込んで殴ったり蹴ったりは当たり前でした。やつらのたちが悪いのは、見張りの下士官の目につかないように極めて慎重にやるところでした。

 

 なぜ私が、知っていたのか、ですって。ふふ、お聞きになりますか。実はね、私が指示をしていたんです。……ああ、いやだ、そんな露骨に怪訝そうなお顔をなさらないでくださいよ。どうしてって? チョット恥ずかしいな……。いや、そのね、理由でしょ。大した理由じゃないんですよ。先にお話しした通り、私は新兵の世話係だったんです。竹見があの蒼白い頬を平手打ちのために赤黒くうっ血させているところに、ちょっと優しく声をかけてやったらたいへん嬉しそうな顔をするんですよ。それであの、いつもは少し神経質そうに伏せてある不安げに潤んでいる瞳で、私を見上げて噛みしめるようにお礼を言うんです。でそれが可笑しくって、可笑しくって……。彼が私に甚大な信頼を寄せるのにそう時間はかかりませんでした。主犯格の私を、そうとも知らずに慕ってくる彼が面白かった。ええ、それだけですよ。

 

 彼が最初に椿を吐いたのは、清国へ行く少し前だったと思います。

 

 いつものように古参の兵に「しごき」と称したいじめを加えられている彼を、壁の陰から見ていたんです。私は確かに目撃しました。彼が拳で腹を突き上げられたときでした。うう、と小さく呻いた彼の唇から、何かがボトリと、不吉な色彩を伴って落ちました。

 

 血かと思って一瞬ギョッとしましたが、コロリ、と床を転がったそれは、丸い椿の花でした。深紅の肉厚の花びらの中から、金粉を纏った雄蕊が覗いたのでわかりました。彼を殴った兵は気づいていないようで、椿が落ちてからも悪態を吐き続けていました。口汚く罵られる竹見を見ながら、私はただ茫然と、あのボトリという感じがいかにも本当の椿の散り方にそっくりだったなぁと感心していました。

 

 その後、竹見を殴っていた兵が名古屋の兵舎の裏で変死体になって見つかりました。頭に銃創がありました。歩兵なら誰でも使う村田弾のものだったそうです。その頭のすぐそばには、血かと見紛うような真っ赤な椿が落ちていたとも噂に聞きました。

 

 私たちの連隊は清国への出撃が決まっていたのもあって、その事件はもみ消されましたが、遺族には「名誉ノ戦死ヲ遂ゲラレタ」と伝わっていることでしょう。

 

 竹見が二度目に椿を吐いたのは、平壌攻略のすぐ前の折でした。

 

 この頃には竹見はすっかり私に打ち解けて、他に人がいないときは「兄さま」と呼んでくるほどでした。噂を思い出して「少尉殿に悪い」とかまをかけたところ、「あんな人は兄ではありません」といつにもまして酷く悲痛そうな面持ちで言うのです。白い眉間にほのかな影をつくって、ぽつりぽつりと女の恨み言のように小さく漏らすことには、兄は士官学校にやってもらえたが、自分は「どうせ二十歳まで生きられないでしょうから」と父と母に言われ続けて育った、あの兄は自分に表面上は優しく振る舞うがどうせ愚かな弟にも優しい自分に酔っているだけだ、本当に私に優しくしてくれるのは兄さまだけです、と、大体そんな内容だったと思います。

 

 そして最後に、「私が酷く当たられるのも、少尉殿のせいかもしれない」と、その華奢な身体のどこから出ているのかわからないほど低い声で彼は呟きました。

 

 これは私にとって幸運な勘違いでした。私は吊りあがろうとする口角を抑えるのに必死でした。それなら好きに呼ぶと良い、などと返してやったと思います。すると彼はひどく嬉しそうな顔をして、あの潤む瞳で私のことを見上げてお礼を言おうとした、そのときでした。突然、こちらも苦しくなりそうな勢いで彼が咳き込み始めたのです。乾いた咳ではありませんでした。確実に、何か異物を排出するための、吐き出そうとする質を持った咳でした。私は細い背をさすってやりました。竹見は口を押え、うう、と手の内側でくぐもった声を上げました。落ち着いたのか、手をぱっと口から離すと、その真っ白い掌には眩しい深紅色の円い花びらを幾重にも重ねて、姫毬のような格好になっている瑞々しい椿の花が乗っかっていました。花に興味のない私でも、思わず声が漏れるほど見事な花でした。一度目よりもはるかに美しい花でした。「もらってくださいませんか」と彼が言ったと思います。私は夢か幻を見ているような心地で、うん、とかああ、とか言ったのでしょう。受け取って、どこかにしまった記憶があります。人間の身体の中から出てきたのが信じがたいほど、清廉な香りがほのかにしたのを覚えています。

 

 ほどなくして、私たち第六連隊はかの桂中将殿の第三師団の下、平壌戦に参加しました。空腹で皆気が立っていました。何せ、私たちは初めから二日分ほどの食糧しか持たされていませんでしたから。竹見も来ていました。彼は私に心酔していたらしく、わずかな自分の食糧を私にわけてくれさえしました。

 

 戦場において、彼は洋琴でも弾いていた方が似合いそうな、繊細な指先で実にうまく十三年式村田銃を操りました。血なまぐさい小銃でも、ほっそりした形状も相まって彼が構えると何かそうした形の楽器のように見えてくるのでした。あのあどけない、どこか憂いを常にうすらと浮かべている横顔はじっと敵兵の方を見つめたままで、手元はそれこそ洋琴を掻き鳴らすような調子で滑らかに弾丸を装填し、銃身をぴたと頬に寄せて引鉄を引けば、次の瞬間には弾は敵兵の頭に吸い込まれていました。私の見る限りでは、彼の弾丸は頭以外を撃ち抜いたことがありません。

 

 そうです。彼の弾丸は必ず、人の頭に喰らいつくのです。

 

 それはあの、少尉殿の頭も含めてです。

 

 野戦でした。少し離れた場所で、私は見ました。入り乱れる人の中で、前方に向かっていった少尉殿の軍帽の後頭部と、竹見のあの横顔とが、ぴんとまっすぐに張られた糸でつながったように見えて、あっ、と声が出そうになったその刹那、既に少尉殿の上半身はぐらりと揺れて、そのままくずおれて、人の波に隠れて見えなくなりました。確かに後頭部でした。

 

 そして私は、軍帽にあの眩しすぎる深紅色を見ました。

 

 でも、兵が入り乱れる戦場において、私以外の誰が気づいたでしょう? きっと敵兵の仕業と思ったに違いありません。

 

 平壌攻略後に、私は竹見からもらった椿を探しましたが、私自身がしまいそうなところを全て探しても、花びらの残骸一枚見当たりませんでした。

 

 椿はお見舞いには不吉だと聞きます。花の散るさまが首が落ちる様に似ているからだそうで……。まぁ、竹見の場合は頭をぶち抜いているわけですから、チョット惜しいですがね。今思うと、本当におぞましい奴と一緒にいたものです。きっと魔かあやかしの類だったんじゃないでしょうか。満期除隊ののちには因縁の両親も手にかけて、尊属殺人の罪に問われて死刑になったと風の噂に聞きます。まぁいくら化け物でも、死刑から逃れることはできますまい。ははは。惜しまれるのは、彼が実の親をあやめたときの椿がいかほど美しかったかが見られなかったことですね。と、まぁ、奴が刑を執行されたと聞きましたのでようやくできる打ち明け話ではございますが。

 

 ところでお客人、そろそろ部屋も暖まりましたし、その外套をいい加減御脱ぎになってはいかがでしょう。

 

 へぇ、お身体が弱くてね……それはお気の毒に……失礼しました。ああ、ああ、そんなに咳き込んで、大丈夫ですか。顔色が悪いです。

 

 あらっ、何か落ちましたよ。