一瞬だけのタイムスリップ

星樹涼

 あなたは、幽霊を信じる? 信じる信じないは人それぞれだけど、私は信じない。この世に未練を残して死んだ人の怨念がそこらへんを彷徨ってるなんて、あるわけない。死んだ人は死んだ人。

 

 私のお父さんは本能寺のお坊さんだから、私はよくお寺の掃除をやらされる。宝物殿、本堂、そして本堂の裏手にある織田信長のお墓の周り。木の枝で作られた箒を左右に動かしながら、金平糖のかけらを掃き集める。今日は六月一日、日曜日。だから、金平糖がいつもより多いんだ。なんでかわかる?

 

 明日、つまり六月二日の朝早くに織田信長が死んだから。知ってるでしょ? 本能寺の変。じゃあ明日こればいいじゃん、って思うでしょう? でも、今日は日曜日。ってことは当たり前だけど、明日は月曜日。みーんなお勤め。私も高校。いつも通りの、土曜日が来ることだけを楽しみにする平日が始まる。

 

 そう。「いつも通り」の毎日が。この時の私は、そう信じて疑わなかった。まさか「あんなこと」が起こり得るなんて。

 

 

 

 

 

「あとは本堂だけ、っと」

 

 掃除を始めた頃には高かった陽も、もう赤くなっている。西日を避けるように本堂に駆け込み、箒を雑巾に持ち替えた。本堂を駆け回り、あちこち綺麗にする。これが正直一番きつい。雑巾掛けって、足腰痛くなるんだもん。サボれるならサボりたい。

 

(よーし、今日はサボっちゃえ!)

 

「今日は、じゃなくて今日も、でしょ?」

 

 聞き慣れた声が私の心の中の呟きに手痛い反撃をする。と言っても、彼女は超能力者じゃない。どうやら私の心の中の呟きは心の中にとどまらず外界に飛び出していたらしい。

 

「昨日も、一昨日も、その前も同じこと言ってた。おじさんに言いつけちゃおっかなぁ」

 

 目をキラキラさせて悪戯っぽく笑うのは、中学の時からの友達、お蘭。変なあだ名でしょ? でも本人の希望だから仕方ない。

 

「えー! 言わないでー!」

 

「じゃあ、あの扇見せて」

 

 これもいつものやりとり。お蘭は超のつく歴史好き、もとい、織田信長好きなのだ。ここ本能寺には、特別な時にしか出さない二本の扇がある。どちらも白地に墨で黒々と文字が書かれている。私には読めない、蚯蚓ののたくったような文字。それでも、彼女には読めるらしい。「これぞ、愛の力よ」とお蘭は言うけど。

 

「にほん手に入るけふの喜び」「舞ひ遊ぶ千代万代の扇にて」

 

 本堂の地下にあるガラスケースから二本とも取り出す。でも、お蘭が見るのはいつも一つだけ。舞ひ遊ぶ、って書かれている方の扇。こっちが織田信長直筆なんだって。

 

「もういいでしょ? バレたら怒られる……」

 

「仕方ないなぁ。はい」

 

 名残惜しげなお蘭から扇を受け取る。ここまではいつも通り。でも。

 

「いつもこんなことしてるのね?」

 

 ゴゴォォォーーッッッと燃える音が聞こえた気がして、恐る恐る振り返る。

 

「あ、おばさん。ごめんなさい」

 

「お蘭ちゃんはいいのよ。それより。吉乃?」

 

「ご、ごめんなさい」

 

「あら、いいのよ? でも、前の約束……覚えてるわよね?」

 

 にこり、と炎を纏った鬼は笑う。しかし、その笑みがなによりも恐ろしいことを、私は知っている……。

 

「……本堂に寝泊まりして、夜遅くまでと、朝早くに掃除する……」

 

 なぜこれが罰になるのか。なぜなら、本堂は物凄く暗いのだ。お蘭は鬼から逃げるように三途の川を現世に向かって渡り、鬼はねぐらへ帰って行き、私はくらぁい本堂で一人、硬い木の床に横になる。そして、そのまま夢の世界へ飛び込んだ。

 

 

 

 熱い。まるでサウナの中にいるような。それよりも熱く、息苦しい。体が燃えていると錯覚するような暑さに、浅い眠りから覚めた。そして一瞬ののち、私はこの暑さの原因が炎であることを知った。本能寺の本堂が、燃えている。

 

「あっ! 扇!」

 

 お蘭のお気に入りの扇は、歴史あるもの。うちの過失で燃やしてしまうわけにはいかないと、火を避けつつ地下へ向かう。そして階段の一番下の段に降り立った時。そこではありえないことが起こっていた。

 

「人間五十年。下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。一度生を受けて滅せぬもののあるべきか」

 

 炎に包まれている中で、その男性は両手に扇を持って踊っていた。風が吹けば倒れてしまいそうな細身。しかしそれを感じさせないほどの覇気がある。

 

(なんて、綺麗……)

 

 男性を綺麗と思ったのは初めてだった。細く鋭い目を伏せると、長い睫毛が目元に静かな影を落とす。その舞を見ていれば、先ほどまで聞こえていた炎の爆ぜる音がどこか遠く感じられた。それほどまでにこの男の舞は美しかった。舞終わった男は一言

 

「是非もなし」

 

 と呟き、扇をその場に置いた。そのカタン、という音でハッと我に帰る。

 

「誰か知らないですけど! 危ないですよ! 逃げなきゃ!」

 

(私のバカ! 見とれてる場合じゃないでしょ!)

 

 見とれていて過ぎてしまった時間を取り戻すように、男の腕を掴んで階段を駆け上がる。本堂を飛び出した瞬間、それまで体を包んでいた熱気がふっと消えた。外に出たからじゃない……炎自体が消えてしまった。まるで火事なんて初めからなかったように。

 

「貴様……何者だ。光秀の軍勢はどこに……」

 

「私はここの娘ですけど。この場合不審者はあなたですよね?」

 

「……俺に言い返す女は貴様くらいだ。名を聞いてやる」

 

 その男はにや、と片頬をあげて笑った。

 

 ……この人、ものすごくおかしい。火事のショックでおかしくなったのだろうか。

 

「藤原吉乃ですけど。あなたこそ誰ですか」

 

「知らずに助けたのか。褒美目当てかと思ったが。まあいい。俺は織田信長だ」

 

 信長と名乗る男がそう偉そうに言い切った時。ジャリ、と靴が砂を踏む音が背後で鳴った。

 

「信、長……様?」

 

「お蘭?! どうしてここに」

 

 呆然としたように立ち竦むお蘭は、手にしたスマホを地面に落とした。そのライトが、信長の足元を照らす。そこには足がある……はずだが、その足は透け、後ろの砂利が見えている。お蘭は私のことを完全に無視して信長に歩み寄った。

 

「お待ちしておりました……信長様」

 

 その目には涙が浮かんでいる。

 

「貴様は?」

 

「蘭丸……森蘭丸にございます。あの時信長様をお守りできなかったこと、お許しください……」

 

 信長の目が見開かれる。

 

「お蘭、か……?」

 

 その瞬間、私は全てを悟った。お蘭が私にお蘭と呼ばせた理由も。今彼女が涙を流している理由も。信長がお蘭を抱きしめようとした理由も。でも、その腕はお蘭を抱きしめることなく、空を切った。

 

「なるほど。俺は死んだか」

 

 信長は自身の透けた手を見つめ、ぎゅっと握って睫毛を伏せた。

 

「お蘭、なぜ俺が見える?」

 

「信長様……。私と信長様の仲ですよ?」

 

「はは、そうであったな。俺は戻らなければならぬ。お蘭、お前は女子として行き続けるがいい。これまでよく仕えてくれた」

 

「いいえ、信長様。このままで終わるわけにはいきません。今度こそ……今度こそ、信長様の仇討ちを」

 

「ならば、共に来るがよい」

 

「はい、永遠にお側に……」

 

 本堂の入り口に禍々しい空間の歪みが現れる。紫と、黒と。嫌な色が混ざりきらずに渦巻いているその空間に、二人は迷わず飛び込んだ。

 

「お蘭! 待って!」

 

 私の叫びも、お蘭は無視する。そのまま二人の姿は消え、空間の歪みもなくなる。後に残ったのは、何事もなかったかのような本堂と、私だけ。朝日が昇る。草の葉に乗った朝露が陽の光を受けて燦然と輝いている。それを払うようにしながらお母さんが来た。

 

「吉乃? 掃除終わったの?」

 

 すっかり忘れていた。私は何のために本堂に泊まったんだろう。今日、学校から帰ったらやらなくちゃ……。

 

「ごめんなさい、できてません……」

 

 頭を下げる。

 

「全く。まだ本堂の中で寝てるのかしら?」

 

「え? お母さん、私はここにいるよ?」

 

 私は目の前にいるのに、お母さんの目は私を見ない。私を見ないで本堂の中に入っていく。まるで、私が見えないかのように。

 

 お母さんが本堂に入った直後。

 

「キャアァァ、吉乃ぉ!」

 

 という、死人でも見たような悲鳴が中から聞こえてきた。そんな、ヒステリックな叫び声を上げるほど汚くはないと思うんだけど。お父さんが慌てて出てきて、お父さんまで私を無視して本堂の中に入っていく。お父さんはすぐに出てきた。真っ青な顔をして、どこかに電話した。しばらくして、パトカーのサイレンが近づいてきた。警察がぞろぞろと本堂に入っていく。ただごとではない雰囲気に、一緒になって本堂に入った私が見たものは。

 

 

 

 焼け焦げた一つの焼死体だった。