たたかい本

布団

 

 男の部屋は薄暗かった。台所には洗われていない食器が散乱しており、一週間以上前に食べ残した物が、まだ床に置いてある。部屋の隅には、捨てられていないゴミが異臭を放ち、その周りには小さな羽虫が、微かだが確かに耳障りな音を立てて飛んでいた。だが、そんな音も男には聞こえていないようで、部屋の隅に微動だにせず座り込んでいるのだった。

 

 真っ暗だった。目の前も、頭の中も、男のこれからの人生も。借金返済のため、家具はほぼ売り払ってしまった。この四畳半の薄暗いアパート一室と必要最低限の汚い家具しか、男には残されていない。部屋の隅にうずくまり、ただただ現実から目を逸らすことしか出来ない。すべてが無意味に覚える。食事も家事も、する意味を見出せない。なぜ自分は生きているのか分からなかった。

 

 

 

 不意に、足元の携帯から着信音が鳴り響いた。男は億劫に携帯を手に取り、応答した。

 

「……はい」

 

「もしもし、こちら――――」

 

 電話の相手は聞き覚えのある会社だった。そう、男が借金を借り入れた先の、闇金企業である。折角外へ出ずに閉じこもり、現実から目を背けていたというのに、あの忌々しいほんの一声によって現実に引き戻されてしまった。その時、男の中で何かがプツリと切れた。

 

 男はすぐさま電話を切り、携帯を力任せに部屋の床に叩きつけた。その携帯は、鈍い音を立てながら床を転がり、無残にも蜘蛛の巣のような無数の細かいひびが入った。だがそれでも男は飽き足らず、携帯を何度も何度も素足で踏み潰した。足の裏が切れているにも関わらず、何かにとりつかれたように踏み下ろす。やがて鈍く圧迫するような音が鳴りやんだとき、そこには粉々になった携帯と血だまりがあった。

 

 

 

 

 

 その後も男は部屋に籠り続けた。携帯を踏み潰したときはもう安心だと思ったが、よくよく考えるとそうではない。本に出てくるような、いわゆる取り立て屋が家にやって来る可能性だってある。なにせ相手は闇金企業だ。家にまで押しかけて男の身柄を拘束し、臓器売買なんてことも大いにありうる。あるに違いない。そう考えだすと頭がいっぱいになり、男の神経は益々ささくれ立った。アパートの廊下を歩く足音におびえ、人の話し声を聞くと息を潜め、ついにはカラスの鳴き声にも恐怖を抱くそんな日々は、やがて男の精神を少しずつ着実に、蝕んでいった。

 

 

 

 

 

 そして、その日はやってきた。

 

 ピンポーンピンポーン

 

 ドアのチャイムが鳴る。男は全身を強張らせ、部屋の端に蹲った。体の震えを抑え、呼吸を殺し、耳をふさぐ。しかし、塞いだ耳の隙間から、未だぼんやりとチャイム音が聞こえる。自分はここにはいない。そう、いない。消えているのだ。空気なのだ。

 

 自分を騙そうと必死に奮闘していると、視界がぐにゃりと湾曲した。部屋の壁が曲がって、崩れて、そこから誰かが入ってくる。そいつは自分に手を伸ばし、襟物を掴み上げ。

 

 いや違う、これは悪い幻想だ。嘘だ。目の前には壁がある。この部屋にいるのは自分だけなのだ。

 

 

 

 

 

 ものすごく長い時間が過ぎたような気がした。ふと気が付くと、もうチャイムもノックも聞こえなくなっていた。だが、体の震えは収まっていなかった。

 

 しかし、その震えはある一瞬を境に、ぴたりと止んだ。そう、粉々になって床に散乱した、携帯電話を目にした瞬間。

 

 なぜこんなにも簡単なことに気が付かなかったのだろうか。「そのこと」に気づいた瞬間、部屋の色が変わった。モノクロに歪んで攻撃的だった壁が、輪郭と明度と、彩度までもを取り戻した。恐怖に支配されていた先程までの自分は、もう消えた。

 

 

 

 玄関口まで歩き、家の鍵を開けっぱなしにする。そして台所の電気だけをつけ、自分はその台所の中に潜んだ。じっと、玄関口の方を見つめて待つ。一秒が数十秒に思える極限状態が続く。今の自分になら何でもできると思った。脳は冴え渡り、視界は明瞭。ただ、耳鳴りのするような静寂の中、自分の鼓動と息遣いだけが妙に響いている。

 

 

 

 やがて、時計の長針が七十二回ほど回った時。自分の部屋の前で立ち止まる足音が聞こえた。その瞬間、全身の血液が逆流したような興奮を覚えた。どくどくと、自分が脈打っているのが聞こえる。きんと耳鳴りがした。目を大きく見開いて、出来る限り視界を広くする。さあ、こい。

 

 

 

 やがて、ゆっくりと足音がこちらに近づいてくる。もう少し。

 

 ――――今。

 

 その瞬間、男は望まざる来訪者の胸に、手に持っていた包丁を突き立てた。ずぶりと音を立て、刃がめり込む。手に鈍い衝撃が押し寄せた。人の体は思っていた以上に固く、それほど深くは突き刺さらない。それでも力の限り押し込んで、一度、刃を抜いた。血がミキサーの蓋を誤って開けた時のように、四方八方に飛び散る。相手は何か理解できない、けれどどこか心の琴線に触れる叫び声をあげ、その場に倒れこみそうになる。しかし、そのまま動かなくなると思っていた相手が、もう一度こちらに向かって足を引きずってきた。まだ死なないのか。ならもう一度。

 

 先ほど刺したところをめがけて、もう一度刃を突き立てる。今度は一度目よりも深く突き刺さった。今度は固い何かが砕けたような手ごたえがあった。だが、相手の手が胸元に伸びてきて掴まれそうになる。一瞬、体中の力が抜けた。と同時に刃も抜けた。だがそれは一瞬のことで、すぐさま刃を握りなおす。まだ足りない。もっと深く刺さないと殺せない。

 

 手に力を籠めなおし、もう一度、これで最後だと言わんばかりの力で刺す。三回目はもっと深く突き刺さった。だが、突き刺すだけではまた起き上がってくるかもしれない。確実に殺すためには、内臓をえぐる必要がある。絶対に殺さないといけない。そのある種脅迫にも似た観念が相手の中身を深くえぐり、赤黒いものを掻き出した。血が溢れ、辺り一面が赤に染まる。腐ったような吐き気を催す香りが辺りに充満する。

 

 

 

 男は興奮した脳の片隅で、綺麗だと感じた。血の海も綺麗だが、なによりもこの状況全てが美しく感じた。光輝いている命が無様な汚物に変わるその瞬間は、人間の生の中で最も美しい。

 

 

 

 

 

 男は玄関まで歩き、ドアを開け、二週間ぶりの外へと一歩を踏み出した。今までの部屋とは違う圧倒的な光量。明るさに満ちた外の、清々しい空気を肺に入れながら、男は部屋を後にする。

 

 

 

 

 

 玄関口には、つめたく光る刃と、どす黒い内臓が残されていた。

 

 

 

 

 

 ******

 

 

 

 

 

 真鍋は大手企業に勤める三十代のサラリーマンだ。妻子に恵まれ、仕事ではその有望ぶりが買われて早くも部長へと出世し、そして何と言っても人望が厚い。彼の決して人を見放さない性格が、上司や部下、友人から慕われている所以だろう。彼の周りには絶えず人があった。

 

 彼には高校以来の友人、霧崎がいた。高校時代はよく本を勧め合った。ほかの五月蝿い同級生たちとは違い、静けさと安寧を好む霧崎は、当時の真鍋にとってオアシスのような存在だった。ほとんどの放課後は霧崎と共に過ごしたと言っても、過言ではない。

 

 霧崎は昔から繊細だった。本を読みながら静かに涙を流している姿を、よく見た。彼の心は柔らかで透き通っており、それゆえ主人公の心情を美しく反映する。それを傍から見ている真鍋は、せめて本の中だけでも、霧崎に幸せでいてほしいと願っていた。やがて真鍋は、幸せであたたかい本を彼に勧めるようにした。途中どれだけ辛いことがあろうと、最後は必ずみんな幸せになる、そんな心温まる本だ。読み終わった後の、彼の満たされた顔を見るのが、真鍋の高校時代の楽しみだった。

 

 だが最近はあまり顔を合わせられていない。少し前の連絡で、彼の母が体調を崩し入院することになったと聞いて以来、連絡が途絶えている。何度か電話を入れもしたが、一向に繋がらなかった。

 

 

 

 

 

 それから少し後の休日、真鍋は一冊の本とミルフィーユを手に、霧崎の家に立ち寄った。繊細な彼のことだ、母親の入院には相当なショックを受けているに違いない。

 

 だが、彼の意に反し、友人は不在だった。何回かチャイムを押し、ドアをノックしても返事はない。心配ではあるが、不在はどうしようも出来ない。また出直そうと心に決め、そのまま踵を返した。

 

 

 

 

 

 三日後。彼は同じように一冊の本とミルフィーユを手にして友人の家を訪ねた。チャイムを押す。しかし、三回押しても無反応だ。電気も消えている。不在なものは仕方がないが、二度もこのまま帰るのは惜しいのでドアノブに手土産を掛けて帰ることにした。が、その瞬間。ドアノブは傾き、そこに掛けた袋は重力に従って地に落ちた。

 

 

 

 そしてゆっくりと扉が開いた。

 

 

 

 何か、とてつもなく嫌な予感がした。この先に進んではいけないのではないか。だが、彼には友人を救うという、ある種使命にも似たような原動力があった。

 

 なるべく音を立てないように、人が入れる程度までドアを開ける。部屋の中は薄暗かったが、一か所だけ明かりがついているようだ。真鍋はそこに向かって足を進めた。そして、ちょうどその明るい台所の横に差し掛かった時、爛々と狂気的に輝く二対の目を持った黒い影が、自分の前に躍り出て、こちらに手を伸ばしてきた。

 

「あ」

 

 そう声に出したときにはもう、遅い。自分の胸に目を下ろすと、なぜかそこが真っ赤に染まっていた。赤い液体。これは……血液。そう認識した瞬間、全身を駆け巡る熱い衝撃が彼を襲った。何とか片目の瞼を持ち上げて目の前にたたずむ陰を見ると、それは豹変しきったかつての友人であった。

 

「きり、さき」

 

 そう呟き、真鍋は友人に手を伸ばした。

 

 頭がひどく混乱している。だが混乱した中、ただ一つだけ、自分が友人を救いに来たことだけは確信していた。だから、彼は手を伸ばした。

 

「ぼくだ。まなべだ」

 

 だが、その呼びかけの一音も霧崎には届かなかった。もう一度、今度はより深く、刃が突き立てられる。目の前がちかちかする。呼吸がままならず、喘鳴が喉から零れる。もう痛みは感じない。ただ全身が燃えるように熱かった。もう死ぬのだなと思った。

 

 最後に、せめて自分にだけでも気づいてほしい。

 

「きりさき――」

 

 かつてのように呼んだ。もう視覚も聴覚もほとんど機能していない。だがそれでも、壊れたカセットテープのように同じ言葉を繰り返した。

 

 と、そこに、三回目の衝撃が彼を襲った。その衝撃は、彼の命の灯をかき消すのには十分過ぎる。

 

 一瞬、書物の香りが鼻先を掠めた。

 

 しかし、すぐさまこの世を飲み込むかのような耳鳴りがそれをかき消し、全てが黒に塗りつぶされる。

 

 

 

 

 玄関口には、あたたかい結末の本と、白いミルフィーユが残された。