舌打ち
もくう
30分かけてセットした前髪を吹き荒らす冷たい風に小さく舌打ちをした。
「月が綺麗ですね」なんてカッコつけたことを言われたせいであいつがあたしを見ないようになった今日も夜空の丸が恨めしい。
月、月、月川。教室で考え事をするあたしの前でふわんふわん揺れる不愉快なツインテールを思い出して思わず眉根に皺を寄せた。自分が世界で1番可愛いと思っているあの子。なんだっけ、意味のわからん噂話をしていた気がする。たしか――夜な夜なカワイイ女の子が消える、だっけ? くだらない。
爪先が当たった小石がゴミ箱に当たって高い音を立てた。2回目の舌打ちをする。
どうせ夜遊びしてたカワイイ子が危ないオジサンにお持ち帰りされただけだ。だいたい夜にカワイイかっこで警戒もせず歩いてるんだから自業自得じゃない?
靴とアスファルトのぶつかる音がやけに耳障りだ。
不意に辺りが点滅する。
上を見上げると寿命が近い電灯。なんなんだ今日は。
3回目の舌打ちは大きく辺りに響き渡った。
ふと、後ろを振り返る。
誰もいない。
ピロン、と大きな音が耳に届いた。
母親から。最近物騒だから早く帰ってきなさい、あとテスト返ってきたんじゃないの、これ以上低くなったら……ああ鬱陶しい。わかってるっての。覗き込んでくるツインテールを避けるように丸めた紙に書いてあった数字を思い出し、4度目の舌打ちをした。
今日はやけに家が遠く感じる。乾いた口の中を潤したくてコンビニを探す。
明るい店内で飲み物入れを睨みつけるが、目当ての物は見つからない。あのお茶好きなのに。5度目の舌打ちに店員がちらりとこちらに視線を寄越す。
なんであれがないんだろう。有名なメーカーのなのに。売り切れたのか。一体どこの馬鹿なコンビニが置いてないんだ。
店内を見渡すが、頭の中で思い浮かべた候補のロゴはどれも見つからない。ローカル系なわけ? そんなコンビニこのへんにあったっけ。もういいや。靴を床に大きく打ち付けて明かりの中を後にする。
大体何であたしは週末を前にこんな不愉快な気分になってるんだ。今日はみんなが幸せな日でしょ。月初めにあった大きなテストは先週終わったし、勉強からも解放されたのに。6度目の舌打ち。
視界の端に動くものが見えたような気がして、立ち止まった。さっきまで響いていた規則的な音が止み、静寂の中に心臓の音がうるさい。ゆっくりと後ろを見る。
誰もいない。
大きく息を吐いた。
一体あたしは何に怯えてるんだ。馬鹿らしい。7度目の舌打ちをする。くるりと前に向き直り、また規則的な音を鳴らすのを再開した。
雲の隙間に朧げに見える月の位置が高い。時計に目をやる。暗くて見えない。明かりを探すと、遠くに薄っすらと電灯が見えた。なんであんなに遠いんだ。住宅街ならもっと沢山つけとけばいいのに、と8度目の舌打ち。まあ、いいか。早く帰ろう。いつものカーブミラーを曲がると、家はあと少し。の、はず。でも――。
こんなに家、遠かったっけ。
口の中が乾いている。暗闇に包まれている。ふと、思い出す。夜な夜なカワイイ子が……。
軽く頭を振って頭の靄を払った。馬鹿な。家が遠く感じるからって人が消えるわけがない。早く帰ろう。
こん、こんと踵が音を響かせる。狭い道に大きく反響して、耳に届く。あれ、なんだか、音が、
二重に聞こえる。
なに、なに言ってるの。足は二本あるんだから二重で合ってるよ。合ってる、よね。だってほら、あたしが止まったら音、止まったじゃないか。早く帰ろう。なんでまだ着かないんだ。9度目の舌打ちがやけに耳の深くまで届いて体が固まる。ごくり、と唾を飲み込んだあと、地面を強く蹴った。顔にあたる冷たい風も気にならない。ただ、ただ、早く、早く、家に帰らなくちゃ。
はっ、と赤信号を目の端に捉えて立ち止まる。なんで今日に限って。いつもここで止まったりしないのに。早く、早く変われ。と急く心に言い聞かせる。大丈夫。この信号を過ぎたら家はすぐそこだ。
横を何かが素早く通り過ぎる。心臓がうるさく鳴り響き出した。走ったから、走ったからだ。この音は。あたしは怖いなんて、思ってない。
ゆっくり、横を向く。
にゃーん
黒猫。な、何だ。猫、か。いや、猫ぐらいなものだろう、こんな時間にいるのは。一体あたしは何だと思ってたんだ。馬鹿じゃないの。10度目の舌打ちをしてから前に向き直る。ほら、信号も変わった。早く帰ろう。ああもう、走ったせいで張り付いた服がうっとおしい。帰ろう、帰って、ご飯食べて、お風呂入って、寝る。そう、いつもの夜だ。
家の前に立ったあたしの前髪をまた冷たい風が荒らした。11度目の舌打ち。
扉を開ける。
布団の上に腰を下ろし、ほう、と息をついた。忌々しいテストのせいで長々と説教を受けてしまった。12度目の舌打ちをする。酷く瞼が重い。静かな部屋に風邪が窓を叩く音だけが響く。
ピロン、という乾いた音。あいつからだ。眠いのに、寝ようとしてたのに、こんな時間に、非常識な。画面の光に暗闇に慣れた目がひりつく。ばさ、と横になり、メールを開く。
ぐわん
黒い固まりがあたしを布団の下から飲み込もうと襲ってきた。声が、出ない。何、なに、なんなんだよ。
ふわりふわりと、見覚えのあるツインテールが揺れる。非常識なメールの差出人、目だけで、開いたメールを見る。
月よりキレイなものはいらないんだよー
何よ、白雪姫の女王様みたいなこと言っちゃって。13回目の舌打ちは、13日の金曜日の乾いた空気の中に響き渡った。
部屋から黒い固まりが消えた時、部屋には誰もいなかった。