の別荘

安野深砂

 

 あれは、僕が高一の夏だった。

 

 あの夏休み、僕等四人家族は、高原の別荘へ行ったのだ。

 

 別荘へ行ったっていうのは、別に家が金持ちで所有の別荘があったとかそういうのではなくて、ただ単に、たまたま安かったのをうまく買うことができた、とまあ、それだけの話だ。

 

 あの別荘に着いた当日、父さんも母さんも姉さんも、そして僕自身も、とにかく浮かれていたのだけはよく覚えている。昼はだだっ広い草原で駆け回って、それから、夜は母さんが焼いた自慢のステーキを屋外のテーブルで四人仲良く食べた。見上げた星空が異様に眩しくて、ああここは都会とはまるで別世界だなと思った。

 

 次の日の朝、起き出して、朝食を済ませ……ああそうだ、僕は外に出たんだ。理由なんてものはない。ただなんとなく、外に出た方がいいような気しただけだ。朝日の香りのする風が、何とも心地よくて、思わず深呼吸をした時だった。

 

 

 

「ねえ、あなたがここの新しい人?」

 

 振り向くと、そこに、少女がいた。

 

 少し緊張したような面持ちで、こちらをじいっと見つめている。歳は、十二、三歳といったところだろうか。彼女が急に現れたことに驚きつつも、とりあえず僕は訊かれたことへの返事をする。

 

「ああ、うん……そうだよ。といっても、僕はここを借りただけだから二週間しかいないんだけどね」

 

「そうなの。あ、ごめんなさい。まだ名乗っていなかった……私はこの別荘の前の持ち主の娘で、あやめっていいます。今はこの近くに住んでいるんだけど、次の人たちに会ってみたくなって、来ちゃったんだ……迷惑だったかなぁ?」

 

 なおもこちらから視線を外そうとしない少女に、「そんなことないよ」と笑いかけると、ようやく彼女も笑顔を返してくれた。

 

「あの、実はね、今日は来て欲しい所があって来たの」

 

「来て欲しい所?」

 

「うん、とっても素敵な所よ。だけどね、途中森を通り抜けなくっちゃいけなくて……でも、本当にいいところなのよ。だからお兄ちゃんが来てくれたら嬉しいな」

 

 こんな満面の笑みで頼まれて、断れる僕ではない。と、いうことで、僕は家族に断って、別荘を離れた。

 

 

 

 歩き始めてかなりたつはずなのだが、少女――あやめが言う、『来て欲しい所』とやらは、皆目見当がつかなかった。隣を歩くあやめに尋ねても、彼女は森に入ってからずっと辺りをきょろきょろと見回していて、一向に返事をしてくれない。だんだんと暗さを増して行く森の中で、一体何をそんなにも気にしているのだろうか――などと考えながら歩いていた時、

 

 唐突に彼女が立ち止まった。

 

 空気の温度が一気に下がったような気がして、見ると、あやめは恐怖に引きつった顔で一点を凝視している。つられるようにその視線を辿った先に……女がいた――木の陰から、透けるように白い腕を伸ばして、おいでおいでをしている……。

 

「いやぁぁぁっ!」

 

 その手招きに呼ばれるかのごとく、あやめが見えない力で引きずられてゆく。

 

 女は、手を伸ばしてあやめを抱き留めると、あやめの胸――心臓のあたりにその白い腕を突っ込んだ。

 

「おいっ、あやめ?!

 

 あやめが首を回して僕を見た。その幼い顔が、悔しさに歪む。

 

 

 

 ――あと、もうちょっとだったのに

 

 

 

 みるみるうちに少女の身体が白い光となって溶けてゆく。

 

「へ……え……? なんなんだよ……」

 

 あやめが完全に消えると、女はこちらへ歩み寄ってき、そして僕の顎を掴んで上げさせ、目を覗き込んできた。女の瞳は、やたらと色が薄かった……。

 

 

 

「ちょっとあんた、何よこれ!」

 

 目を開けると、姉さんがいた。閻魔大王顔負けの鬼の形相で。そして僕は、ベッドの上にいる。なんだ、夢だったのか……はは、なんて夢だ。

 

「あんたどうしたの?! ズボンもベッドも泥だらけじゃないの!」

 

「ん……? あれ……夢じゃなかったの、か?」

 

 

 

 ――私は、この森の精です。お気づきでなかったんですね、あなたは神隠しに攫われそうになっていたのですよ。ええ、あのあやめという少女は、神隠しです。彼女自身も前回の犠牲者なんですけれどもね……恐れることはありません。私があなたを元の世界へ戻して差し上げるつもりですから……でも、少し遅かったかもしれません……。

 

 

 

「おい姉さん、今日ってここに来て何日めだっけ?」

 

 僕の真面目な問いに、姉さんは馬鹿じゃないの、とばかりに鼻を鳴らした。

 

「二日目の朝に決まってるじゃないの」

 

 

 

 ――あなたは半分ほど、神隠しの世界へ入ってしまっている。こちらとあちらでは時の流れが違うのです……だからあなたはもう、うまく元の世界に戻れたとしても、元居た時間の流れには戻れません……うまくいかなければ、一生この世界に囚われたままになるわけですから、それくらいは勘弁してくださいね……。

 

 

 僕はあの夏を思い出しては考える。元居た時間の世界の僕は、まだ神隠しに囚われたままで、今頃、あの少女のように、次の別荘の持ち主を仲間に引き入れている最中なのではないかと。