の冴華ちゃん

賽子

 開演の五分前を告げるアナウンスが流れ、聴衆は潮が引くように静かになった。そのしんしんと張り詰めた空気が舞台裏まで伝わってきて、篠岬高校演劇部員らは緊張に顔を強張らせている。

 

 部長の榊原が部員を鼓吹するように自慢の嬌声を潜めて言った。

 

「色々あったけど、皆の御蔭で何とか完成させられた。絶対に、この舞台を成功させよう」

 

 三年の部員にとっては最後の舞台だ。何としても成功させたいに違いない。これまでとは力の入れ方が違う。そのことは後輩も十分に理解していた。

 

 榊原は円陣を組もうと、隣にいた西樺の肩に腕を回した。榊原の美艶な笑みを見て、安心したのだろう。お互いの顔を見合わせて、部員たちは頷き合った。

 

 全員が肩を寄せ合って、円陣を組む。新入部員の一人が、そういえば、と言った。

 

「ところで、県岡先輩は?」

 

 

 

 誰も首には気付かない。

 

 

 

 円陣を解いて己がじし、配置に着く。榊原と西樺、飯塚の三年生三人は、観客と幕で隔てられた舞台の上に立つ。

 

 開演のブザーが鳴った。

 

 

 

 ***

 

 

 

 演劇部には二年C組の教室があてがわれている。初夏の陰湿な気候のせいか、締め切られた教室はなんだか暗鬱な感じがした。

 

 部長の榊原さんをはじめ飯塚さん、西樺くんら三人が冴華ちゃんを取り囲んで立っていた。冴華ちゃんは下唇を震わせながら、目を泳がせている。

 

「県岡さん」

 

「……な、何? 榊原さん」

 

「私ら、三人で話し合ったんだ」

 

 榊原さんの声はとても綺麗だけど、普段の棘のある言い方はその声のせいかほんとうに怖い。あの冴華ちゃんが怯えている。「今日の舞台だけどさ。役、降りてくれないかな」

 

「……え?」

 

 意味がわからない。榊原さんの言っていることの意味が、まるでわからない。冴華ちゃんも、かなり動揺しているみたいだ。

 

「どうして? 怪我のせい? そんなの本番までに治すよ。だから……」

 

 冴華ちゃんはそう言って包帯で巻かれた右脚を指す。飯塚さんはそれを冷ややかに見下ろした。

 

「いや、本番今日だし。なんなら一時間後だし。普通に考えて無理でしょ。冴華さ、あんたそんなことも分かんないわけ?」

 

「あとさ、前から思ってたんだけど、俺らずっと県岡に退部して欲しかったんだよね。とうとう今日まで言わなかったけど」

 

 三人が寄ってたかって冴華ちゃんを虐めてるみたいだ。止めてあげたいけれど、私にはどうすることもできない。

 

「下手くそなくせに、よく自分からあの役やりたいって言ったよね。死体見つけて驚くだけの、簡単な演技もできないくせに。前のコンクールも県岡さんのせいで連覇できなかったしさ」

 

「……それは」

 

「代役の心配ならしなくていいから。冴華のやる死体の第一発見者さ、演技臭くってなんか気持ち悪いんだよね。二年の役ない子にやらせた方が、よっぽど上手かったからさ、結構前からその子に頼んでた」

 

 冴華ちゃんは小さく俯いた。

 

 あんまりだと思った。下衆も、ここまでくれば滑稽だ。どうせ、嫉妬が積もり積もった結果だろう。冴華ちゃんは可愛いし、よく練習していたから、先輩たちに可愛がられていた。演劇経験者の西樺くんや榊原さんなんかより、出番のある役をたくさんもらっていた。

 

「私たちの最後の舞台、あんたのせいでまた台無しにされたくないしね」

 

「あとさ、中学んときに同級生自殺させたんだってな。県岡と同中だった奴らが言ってたの聞いた。そんな奴と三年間一緒いてやったこと、褒めて欲しいくらいだわ」

 

 そういうことだから、と言って、三人は無理やり呼び出した冴華ちゃんを置いて講堂に向かった。教室に一人取り残された冴華ちゃんは、静かに泣いた。

 

 あいつらは一つ勘違いをしている。

 

 冴華ちゃんは確かに、いじめっ子だったけれど、その子が死んだのは冴華ちゃんのせいではないってことだ。そのことに関しては、私が一番よく知っている。だって私は冴華ちゃんの一番側にいたのだから。今もそう。私は冴華ちゃんの後ろに立っている。

 

「……もう、死にたい」

 

 冴華ちゃんの小さな口が、そんな言葉をこぼした。冴華ちゃんはクラスでも虐められている。足の怪我も、足を引っ掛けられて、階段から落ちた時のもの。同じクラスの飯塚さんのせいだ。

 

 許せないと思った。榊原も、飯塚も、西樺も。

 

 私、冴華ちゃんのために何ができるのかしら。あいつらに、どうすれば復讐できるのかしら。

 

「死にたいよお」

 

 ――――気がついたら、冴華ちゃんの首に手をかけていた。

 

 どうせ触れられないと思っていた。でも、四年ぶりかしら。私の掌が、冴華ちゃんの体温を感じていた。感覚があった。まるで生きているときみたいだった。

 

 冴華ちゃんは顎をガクガクさせながら、宙をつかもうとしている。私、今なら冴華ちゃんを殺してあげられるんだ。

 

 大丈夫だから。

 

 今楽にさせてあげるから。

 

 そうだ。冴華ちゃんの首を捻切って、あいつらにそれを見せつけてやろう。それで後悔させてやるんだ。

 

 冴華ちゃんは息をしなくなった。小便を垂れ流して般若みたいな顔で死んだ。

 

 

 

 冴華ちゃん、私はあなたを怨んでいたわけじゃあないの。それだけは信じてね。

 

 私は冴華ちゃんのことが大好きだったから、冴華ちゃんが私にどんなに酷いことをしても怒らなかったでしょう?

 

 私のかわいい冴華ちゃん。

 

 あなたの首をあいつらに見てもらおうね。

 

 榊原たちに思い知らせてやるの。本当に死体を見た人間はどうなるのか。どんな声を出して、どんな表情をして、どんな動きをするのか。彼らの演技がいかに稚拙で、冴華ちゃんに遠く及ばないか。

 

 私のかわいい冴華ちゃん。

 

 かわいいかわいい冴華ちゃん。

 

 私、死んでよかったわ。あなたも死んでよかったでしょう? これで私たち一緒になれるんだもの。死ぬことも案外いいものね。

 

 さあ、冴華ちゃん。私を自殺に追い込んだ、私の誰より愛おしい人。行きましょう。あなたの最後の舞台に。そろそろ開演の時間だわ。

 

 

 

 ***

 

 

 

 幕の上がる音が講堂のしじまを破る。赤い照明が三人を照らす。

 

 舞台の縁に何かが落ちている。

 

 ボーリング球くらいの大きさで灰褐色のその物体の下は、赤黒く濡れていた。

 

 先刻まではなかった。悍ましく、吐き気を催す臭気のするそれは。なかったはずだ。舞台の小道具でもない。

 

 一瞬の間を置いて舞台上から甲高い悲鳴が上がる。

 

 観客は息を飲む。次の展開に期待を膨らませて。手に汗を握って舞台を見守っている。

 

 悲鳴が途切れて、今度は水を打ったように静かになった。

 

 三年生引退公演はまだ始まったばかりだ。