本当は怖い恐怖の物語
海洋渡
家に帰って時計を見ると、既に十一時に迫ろうかという時刻だった。
俺は悲鳴を上げて二階の自室に駆け上がり、机に問題集と演習用ノートを放り投げてそれを開いた。
今日は考査の前日だ。――徹夜してでも詰め込む! さっきまでだって塾で色々詰め込んでたけどこれからもとりあえず詰め込む!
とにかく脳みそを英語にシフトしようとして、俺ははたと気付いた。
明日は英語と化学だが、明後日には数学がある。
そういえば、数学の課題に手をつけていない。
よって、数学がやばい。
ううむ――英語、化学両者は基本的に暗記が多いから、徹夜と意気込んでみても、そう大して時間がかかるわけではない。ワークも何なら通学の電車の中でできるし……むしろ大量の作業を必要とする数学の提出課題を優先するべきでは?
俺はリュックサックをごそごそやって、難易度の高さにツ○ッターなどでも非難轟々の有名問題集を探そうとした。
ん?
おい待て。そんなはずがあるか。
――時計の短針が二を指差す頃になって、俺は結論づけた。
サクシードを無くシード……。
これは……友人のを写シードか……?
この世界は残酷だ。全然美しくない。
昨日サクシードの失踪に気付いてから、ちょうど一日が経過した。――あの不真面目どもめ。何で毎日こつこつ問題演習しないんだよ。俺これから写さなきゃだから貸せねぇよって答えるやつ多すぎだろ。まあ、中には開き直って、お前だってどうせしてねえんだろバーカとか言い返してきた奴もいたけど。
「はぁ……あーもー」
都合よく明日の試験が無くなってくれればいいのに。……いや、せめて教科書の問題ぐらい解いとくか。予防線程度の対策でしかないが、これで万が一、試験自体の点まで悪かったら始末に負えない。
ともかくも鉛筆を削ろうとして、ちょうど肥後守を友人に貸してしまっていたことを思い出した。――子供のときに父の書斎で発見し、ねだって譲り受けた肥後守。柄は真鍮製、刃渡り四センチ少々のいわゆる豆サイズ、古びた雰囲気が逆にカッコいい。銃刀法で規制されるのは六センチ以上の刃物なので、毎日筆箱に入れて持ち歩いている。
あれを使っている所を友人に見せたいがために、わざわざ便利なシャーペンを跳ね除けて鉛筆派に走った過去を持つ俺なのだが……どうにも友人が興味を持っていたようなので、少し前に仕方なく、あいつの手に握らせてしまった。
というか、これはあまり良くない事なのでは? 友人とはいえナイフのやりとりだぞ。先公にでも見られてたら結構ヤバイんじゃ……。
いや、今考えても仕方ない。それに、肥後守をあいつにやったとき、教室に残っていたのは俺たち二人だけだったし、他の誰にも見られていないはずだ。
とりあえず問題を、――。
……シャーペン使うか。
臨時休校のメールが家に届いたのは、朝六時頃のことだった。
理由も何もなしの端的な文章。天気予報を確認したが、警報は出ていない。
特殊な事情が絡んでいることは明らかだ。だが、ニュースや地域の犯罪発生情報サイトを覗いてみても、特段気にかけるべきものはない。
うーん。ともかく、数学のテストが無くなるのは確かなんだな?
俺は、昨日肥後守をやったのとは別な友人に連絡した。
『サクシード済んでるだろ? ノートでも答えでもいいから貸してくれ』
そのさらに翌日。さあ、数学の準備はバッチリだ! ドンと来い!
……と意気込んでいたにも関わらず、今日の考査は延期する、特に荷物はいらないから、とにかく登校してくれとの学校様の仰せだ。これは予想外だぞ? しかしまあ、無いと言われたものをしてくれとせがむこともない。おとなしく従おう。
教室に向かうと、やけに人だかりができていた。
「何で入んないんだよ?」
人だかりの中で困り顔だったクラスメートに訊ねると、無言で教室を指差された。
何か黄色いテープみたいなものがドアにも窓にも張り巡らされていて、これでは確かに入りようがない。……というかこれ、ドラマとかでよく見る、警察の……?
そこに担任がやってきて、強張った顔で、これから集会だから校庭に集合しなさい、と指示を下した。
ざわめきの中、だらだらと校庭に出ると、俺の目ははためく校旗に留まった。いつも掲げられているおなじみのものだが――今はポールの半分ほどの高さで揺れていた。
しばらくすると校長が出てきて、マイクを握った。
「動揺せずに聞いて下さい――」
二年D組のOOさんが、教室で自殺したのだと伝えられた。
「あ、あの」
教室をせわしなく出入りしている警官の一人に、俺は話しかけた。
「ひょっとして、あいつ――肥後守で」
警官は目を見開いた。
「君、何か知ってるのか!」
「あ、あの、俺――あの肥後守、俺のなんです。一昨日、あいつが興味持ってたみたいだったから、貸して――あの、やっぱり、色々調べたりするんですか。もう手元に戻ってきませんか?」
警官は何とも言えない顔をする。
「返すのは難しいかもしれない。何分彼の書置きみたいなものも見当たらないから、状況とか背景とかを調べるのに、手がかりになるかもしれないし――それに君だって、クラスメートが自分の命を絶つのに使った刃物を持っていても、気が滅入るだろう」
「そう……ですよね」
俺がうつむくと、その隙に警官は、また新しく通りかかった別な警官に何やら話しかけた。少ししてから警官は俺に向き直る。
「君は、彼の友達だったの?」
「ええと――はい」
「このような状況で、君も辛いだろうけど、少しだけ協力してくれないかな。つまり、話を聞かせてくれないか、ということだけど」
俺は、しばらく警官の顔を眺めてから、うなずいた。多少なりとも、捜査の方向性を定められるかもしれないし。