イチゴのタルト

 

うすらい

 

 

 

 レースのカーテンをすり抜けた午後の日差しが、閉ざした瞼をきらきらとくすぐった。

 

 橙色の光が、ぼうっと瞼の裏側の暗闇に浮かぶ。それに気づいたときには、すっかり意識が眠りの深淵から引き揚げられていたので、少年はふっと目を開いた。瞼の庇護を失った目は、辺りの光を過剰に受け止める。とろける輪郭。けれどそんな視界の中でも、鮮烈に映らずにはいられないものがあった。

 

 白葡萄酒の泡を流したような、淡い金髪。本の文字を追う、伏した睫毛に縁取られた冬空の色の瞳。本の頁を繰る手に危うささえ添えている、薄紅色の華奢なつくりの爪。その人はいつも惚れ惚れするような完全さで傍にいてくれる。

 

 だからといって、窓辺の書き物机に腰掛けて本を読むのは賛成しがたいが。

 

「おはよう」

 

 彼は本からふっと目を上げて、こちらに微笑みかけた。少年のものよりもすらりと長い、つくりもののような下肢が組み直される。

 

「おはよう……って、またそこで本読んでる」

 

「いいだろう? きみは書き物なんてしないのだから」

 

 ひどいや、と口を尖らせる少年に彼は苦笑を寄越す。その苦笑ですら憧憬を抱かせるのが小憎らしい。

 

「まぁまぁそれより、きみこそどうしたの。午睡なんてめずらしい」

 

「今朝から少し熱っぽくて。前にも一度、こういうことがあったんだけれど」

 

「そりゃ大変だ。そういうときは、好きなものを食べて、ゆっくりしているのが一番なのさ。例えば……」

 

 彼は柔く薄い唇から乳色の歯を覗かせて笑う。こういうときに彼が作ってくれるものといったら決まっている。少年は自信を持って答えた。

 

「イチゴのタルトとか?」

 

「大正解だ」

 

 やったぁ、と少年は寝台の上で手を叩いた。彼のタルトはずっしりとしたパイ生地にクリームを塗り込めて、その上に真っ赤に熟れたイチゴをたっぷり並べ、仕上げには粉砂糖を振ってある。少年が病気のときにしか作ってくれないご馳走だ。

 

 だからそれまでおやすみ、と彼は少年の体に掛かった毛布を整える。彼の身体からはほんのりと、甘いというには控えめで、それでも確かにたちのぼる匂いがあった。そのにおいに安堵した少年は、再び瞼が重くなるのを覚えて、眠ってしまった。

 

 

 

 眠ると熱は酷くなった。身体が汗ばんで、えもいわれぬ寝苦しさに襲われた。布団のなかに籠った熱が、極彩色の夢を見せた。普段では到底見られない、どこか別の人間の頭から連れられてきたような夢。どこまでも鮮やかだけれど、忘れてしまう夢。そうした夢たちがいくつもいくつも少年を過ぎ去っていって――――。

 

 

 

 そうして目が覚めたときには、熱は引いていた。

 

 少年は身を起こす。肌に触れる空気がいつもより柔らかに、冷たく感じられる。身体は逃げ出していった夢の分なのか、幾分か軽くなっていた。窓の外はもう夜で、明かりと言えば壁に据え付けの燭台に乗った蝋燭くらいだ。それに加えて今日はひとつ、窓辺の書き物机に手燭があった。

 

 そのすぐ隣に、真っ赤なイチゴのタルトが置かれている。イチゴの表面が、蝋燭の光を受けて金色に光っていた。白い陶磁の皿には、華奢なつくりのフォークまでのっている。これは、食べても怒られはしまい。そう考えるや否や、少年はフォークでタルトを切り分けて口へ運んでいた。イチゴの酸味がクリームで和らいで、瑞瑞しい甘さが口いっぱいに広がる。

 

 夢中で平らげてしまうと、少年は彼の所在が気になった。

 

 廊下へ出てみて、小窓のさんに山桃がいくつかのっているのに気づく。それは他の小窓も同じ様子で、どの小窓にも褪せた紅色の山桃の実がのせられている。少年はそれを摘まんで口に運びながら、あることに気がついた。この廊下は、書斎に続いている廊下だ。彼があの書き物机の次に気に入っている場所。そこで彼が待っているに違いない。そんな確信めいた思いを胸に、少年は足取り軽く書斎の方へと進んでいった。

 

 書斎の重厚な扉を押し開ける。少年は恐る恐る中を覗き見た。

 

 彼はいない。けれどその代わりに、本棚の中にはたくさんの菓子が所狭しと並んでいた。粉砂糖をまぶしたガトーショコラ、切って間もないまだ湯気の立ち上っているキャラメル、狐色をしたマドレーヌ。それらを目にした途端に、目の奥で何かが弾けたような気がした。少年は何かがとりついたように、気がつけばそれらを貪っていた。甘い。甘い。甘い。甘い。次第にフォークを使うのも煩わしくなって、手掴みで口へ運んでいく。口元が汚れるのも、床にこぼすのもかまわない。そうして喰らい続けるうちに、腹がくちくなったので、少年は眠ってしまった。

 

 

 

 目を覚ますと、少年は辺りがひどく荒れているのに気づく。書斎中に散らばっている本の山。ものによっては凄まじい力でくり貫かれたような跡すらついている。

 

 書斎の外へ出て、冷たい空気に少年は身震いした。廊下には、小窓のさんに置いていたはずの紅色の花瓶が割れて散らばっていた。中には、割れ目が歯形のようないびつな形をしている破片すらある。少年は、口腔内の鋭い痛みに気づく。

 

 寝室の扉まで来て、少年の手は震えた。書斎のものよりずっと薄いはずの扉を開けるのに、長い時間を要した。

 

 扉を開いた。

 

 橙の明かりが照らし上げる薄闇の中。寝台と、その脇の書き物机が浮かび上がっている。少年は、部屋を覗き見る。

 

 寝台の陰に。書き物机の下に。

 

 薄紅色の華奢なつくりの爪を持つ手は、ぐったりとのびている。