金曜の幸

 

小麦粉

 

 私は最近、金曜の夜が楽しみである。別にプレミアムフライデーだからではない。学生の身分である私にはまるで関係のないことだ。塾帰りで疲れた私を元気にしてくれるのは、ある女性である。

 

 なんだかよくわからんが不快だ。それが彼女に対する第一印象であった。といっても、後に面識があったことが判明するのだが。

 

 

 

 その日も金曜日だった。彼女は私と同じバスから降りた。街灯が照らす夜道、私の影が彼女の影を追いかける。茶色のストレートヘアは背中の真ん中まで、右手に握った電話で誰かと話しているらしかった。

 

 マンションのエントランスに着く。彼女がオートロックを開ける。私は彼女が入るのを待ってから入る。彼女は相変わらず電話をしている。先に彼女が乗り込んだエレベーターに続いて乗り込む。

 

 私は自分の階のボタンを押そうとする。操作盤の前に彼女は立ちふさがって、ボタンが押しにくい。それに驚くべきことに、彼女の指は「閉じる」ボタンを押しているではないか。なんて無礼な奴なんだ。私はムッとした。彼女の家より下の階であるが、仕方なしに箱の奥に入る。彼女は電話を続ける。

 

「はい、はい。分かりました」

 

 どうも周りに気を使えないらしい。三、四歳年上であろうか。お化粧も濃く、何となくヤンキー臭がする人だ。ぼそぼそ、だらだらした話し方をする。

 

「ちっ。乗ってくんなよ」

 

 低い声ですばやく呟く。それから、すぐに先ほどのだらついた声色に戻って、通話を続ける。

 

私はひどく驚いた。そして、次第に怒りを感じる。心の中で厚顔無恥な輩に格下げした。

 

 私の階に着くと、また「閉じる」ボタンを押している。私はひどい驚きを抱えたまま、降りた。

 

 なぜそんなことをするのか。そして彼女は誰なのか。そう、まさになんだか分からんが不快だった。

 

 

 

 次の金曜日も、その次の金曜日も彼女と同じバスだった。というのも、バス停で待っているときや、後ろの席に座っているときに、わざわざ振り返ってまで見てくるからである。私は関わりを持ちたくないので、できるだけ単語帳から目を離さないようにしていた。

 

 バスから降りるともっとひどい。薄暗いところを通ってまで、近道をして私の前に出てくるのだ。そして、チラチラと何度もこちらを振り返る。時には走ってまでエレベーターに乗っていくのだ。その時のボタンの連打数と言ったら、なかなか面白いものであった。

 

 さすがに気持ち悪いものがあるので、母に話してみた。彼女の年のころ、何階に住んでいるかを話してみたところ、どうも小学生のころ、私は彼女から嫌がらせをうけていたらしいことが分かった。らしい、というのは小学校低学年に寄ってたかって嫌みを言っていた上級生の一人一人など、覚えているわけがないからである。

 

 十年越しで嫌がらせの再開か、と思うとその執念には頭が下がる。一体何がそこまで癇に障るのかは分からない。不快なので、もう一本後のバスに乗ることも考えたが、それだけのために十分も待つのも、なんだか気分が悪い。私はその後も乗るバスを変えなかった。

 

 

 

 次の金曜日、ちょうどこの日は体育祭であったが、エレベーターが一機も、一階にいなかった。仕方なく私と年配の女性、そして彼女が乗ることになった。

 

 私はいい加減、腹が立ってきていた。かといって、こちらから何か反応してやるのも癪だった。私はいつもうつろな目をして、彼女のやることなすことに、視線一つ動かしてこなかった。今までいないもののように扱ってきたのだから、これからもそれを貫こう。うんざりした気持ちは、引きはがされることなく、エレベーターが運んでいく。そしていつもと同じ時間をかけて、私の階に着く。

 

「さようなら」

 

 私はついいつもの癖で挨拶してしまった。返事はない。私はあぁ、しまったと思った。しかし彼女はひるんだのだろうか。いつもは強く長く押しているボタンを、トッと押すとすぐ離した。

 

 きっと押すのがはやすぎたのだろう。私が降りた後も、しばらくエレベーターは開いたままで、もう一度彼女が動く気配が後ろからした。

 

 私はなんだか満たされた気分になった。おかしかったのだ。彼女は私に嫌がらせをしようとするあまり、もう一度ボタンを押さなくてはならなくなった。もちろん非常に小さなもので、労力のうちにも入らない。しかし、自分の無礼な態度に対して返された礼節に、彼女は敗北したのであった。私は楽しくなってきた。今まで自分は被害者だと思っていたが、それは大きな間違いだった。彼女の方が私に怯え、意識し、そして逃げまどっていたのだ。私はやっと自分が捕食者であることに気がついた。

 

 

 

 金曜の夜、私は歩いていく。自分の家に向かって、そして右手に持ったスマホから何度も顔を上げて、最後には小走りになる獲物を追って。急ぐ必要はない。ただ堂々と、一歩ずつ、歩いていくのだ。それこそが復讐なのだ。ここには一週間の疲れを癒してくれる、暗い喜びがある。私は歩く、夜のとばりに口のほころびを隠して。

 

 

 

お題

 

「なんだかよくわからんが不快だ」

 

れれれ