アルミホイル
少女はいかなる時も、笑顔を絶やさなかった。悲しい時も、苦しい時も、涙が溢れて止まらなくなりそうな時も。
少女は知っていた。自分の人生が、残り僅かであることも。彼女の肉体を蝕む病魔は、幸多き少女の時間をことごとく奪い取った。
それでも、少女は泣かなかった。愛する人のことを思えば、休まる間も無く襲い来る辛苦も、忘れられた。その人を想うが故に、決して涙は流さないと、心に決めていた。
病室の扉が開く音。ぜえぜえと、荒い息遣い。それらをはっきりと聞き取った少女は、目を閉じたまま、来訪した人物の顔を思い浮かべ、微笑んだ。
少女は目を開けた。――期待していた人物の、想像と寸分も違わない表情があった。
「ごめん、待たせたね」
少女を訪ねに来たスーツ姿の男の、全身をふわりと抱擁するような声に、自然と少女の口元は綻んだ。
「待ってないよ、全然。先生はいつも、私に愚痴しか言いに来ないから、お話ししてても、気分が憂鬱になるだけだもん」
素直に気持ちを伝えるのが気恥ずかしくて、少女は意地の悪い台詞を口にした。先生と呼ばれた男は苦笑しながら、「酷いなあ」と、一言で返した。本当は少女の照れ隠しにも気付いていたが、あえてそれには触れないでおいた。
「ところでさぁ、今日って何の日か、覚えてる?」
「……うーん、覚えてない。ずっと病院の中だから、曜日感覚とか薄れちゃうよ」
「じゃあヒントをあげよう。僕たち二人だけが知っている、僕たち二人だけの、誕生日より大事な記念日ってなーんだ?」
僕たち二人だけが知っている、僕たち二人だけの記念日。ここまで言われて、少女に答えが分からないはずがなかった。
「私が屋上で先生に告白した日!」
「正解。これ、ほんの気持ちだけど、受け取ってくれるかな?」
そう言って男は、足元に置いていた、鮮やかな赤色の薔薇の花束を少女に手渡した。
「ありがと。どうせ間に合わせだろうけど」
「手厳しいなぁ。天邪鬼も行き過ぎると可愛くないよ?」
「あ、天邪鬼じゃないもん!」
図星を突かれたのか、少女は頰を紅潮させ、思わず頰を膨らませた。分かりやす過ぎる少女の反応がおかしくて、男は思わず吹き出してしまった。当然少女は憤慨したが、いつまで経っても男が笑い続けるものだから、釣られて笑い出してしまった。
「本当に可愛いなぁ、僕の彼女は」
「そんな分かりきったこと、いちいち言わないでよ……恥ずかしくなってくるでしょ」
「冷たいこと言うなよ。こんな所でしか、僕は堂々と彼氏面できないんだからさ」
そう言われて、少女は複雑な気分だった。確かに、男と少女の関係は、とても人前で話せるようなものではない。愛さえあれば関係ない! と、主張できる世の中なら、どんなに幸せだろうか。無情なこの日本では、教師と生徒という関係であるだけで、愛し合うことすら許してくれない。病に伏せる少女の未来は、もう目と鼻の先に末端が見えているのに。
「……という、設定の、どこにでもありそうな陳腐なラブストーリーでした」
「おい、設定とか言うな。この本を読んでいる人に申し訳ないだろう」
これが単なるフィクションならどんなにいいか、実は病気なんて嘘で、ドッキリだったならどんなに良いかと思い、少女はつい、設定という言葉を口走ってしまった。
「うわぁ、すごい。私のメタ発言が、多少強引だけど台詞として処理されようとしている」
「いい加減にしろ、お前は……、この作品を台無しにするつもりか!」
少女の哀しい現実逃避。男は、彼女の気持ちを汲んで、それに協力してやることにした。
「いや、だって。作者の都合で勝手に重病患者にされて、好きでもない男と恋仲っていう設定まで付けられる不条理な世界なんて。抗いたくもなるでしょ」
「抗うな! あのなぁ、俺だってお前のことは好きじゃないし、この世界は嫌いだ。でも、俺たちいくら頑張ったところで、この世界の創造主たる作者のアルミ箔には敵わないんだよ! 何度メタ発言を繰り返しても台詞処理されて、どっかで見たような凡庸な恋愛小説に戻されるだけだ!」
「じゃあ私は台詞処理が追いつかなくなるまでメタ発言を繰り返すだけよ。ほら見て。私達の暴走に作者は追いつけてない。三人称が挟まれなくなってきてる」
「この辺にしとけ。もう気は済んだだろ? あんまり創造主の怒らせるもんじゃない。さもないと、お前……」
「さもないと、何?」
「消されるぞ。描写という名の、裁きの鉄槌によって」
悲劇は、突然に訪れた。少女と男が、いつもと変わらぬ調子で益体のない会話を繰り広げている最中だった。――少女の容体が急変。少女は、口から深紅の液体を吐いた。
「何……これ? こんなの、酷い……反則じゃない!」
「だから言ったろ。作者の不興を買った、お前に天罰が下ったんだ」
少女は、この日。この瞬間。――男の前で、初めて涙を流した。
「……こんな仕打ち受けといて、そりゃ泣きたくもなるでしょ!」
少女の表情から、急速に血の気が引いていく。息はだんだんとか細く、呻き声のようになっていく。それでも彼女は、最期の刻まで、抗い続けた。少女と男の将来を邪魔する悪魔に。
しかし、運命とは非情なもので。――生き長らえることは、ついに叶わなかった。
「一応涙でも流しとくか。俺は空気読むキャラだからな」
男は泣いた。少女が寝ていたベッドが、水浸しになるまで。
お題
「この本を読んでいる人に申し訳ないだろう」
新葉しあ