賞味期限の無い街で

仏山谷飛鳥

 

 西日が彼女の輪郭を浮かび上がらせたその時、僕の胸は空っぽだったのか満たされていたのか、いずれにせよ飽和状態でした。それは単色で、私はそのことに気付くはずもなく、さらには時が流れるのさえ知らなかったようなのです。

 

 その次の日、彼女の夢を見ました。大した夢ではありません。彼女はエトセトラ。ただ、目が覚めると、いつの間にか主人公になる。不思議なものです。そんな夢を見たり見なかったり、単色のグラデーションはもはやグラデーションでない。そんな日々が続きました。彼女の胸を覆う膜に顔を突っ込んでみたい気持ちと、その心の核をなす恐怖。またそれらを一気に隠しこむ自己嫌悪が言葉にして出て来ては空気の中に消えてゆくのです。暇を持て余した挙句にギャンブルにのめりこんだ社長夫人のごとく、無意識の感染症に侵される日々は、今考えても悪いものではありませんでした。

 

 ただ、そんな日々の中で本当に全くの変化を感じなかったわけでもありません。何物かに支配されている気はしていても、その実態がわからずにそのまま進んでしまう。進んだことは少しくらいわかります。百年に及ぶ遂行を重ねてもなお出版されない事実が分からないのです。

 

 ある朝、電車の中で彼女に会いました。彼女は優しく微笑んで手を振ってくれました。しかしなぜでしょうか、僕の胸には何やら鮮やかな虹ができているようでした。その虹はきれいでしたが、儚さの象徴でした。その時、私は疑いの念を抱きました。その疑いの対象はもちろん彼女ではなく僕です。この疑いは結局のところいつも通りなのですが、やはり何度も寂しさが残ります。この時点で期間限定になってしまった彼女。何とかその限界を延ばそうと、幻想の中でもいいと諦めながらも奮闘し、消えていきます。結果は……まぁいいでしょう。

 

 

 

 *

 

 ある夜、私は彼の家へ行きました。彼も実家を離れて大学に通っていましたし、お互い大したお金があるわけでもありませんので、仲のいい友達の家に遊びに行くような感覚でしょうか。彼は私に夢中でしたが、私は私に夢中だった。そのことに気づいた時の私に後悔はありませんでした。所詮、彼も分厚い履歴の一部に過ぎませんし。私を呼ぶ声が聞こえても知らないふりをしている。「ときめく」とはこういうことです。それを彼は知らなかった。情けないのは彼のほうだと、自分に言い聞かせました。

 

 その晩は雨が降っていたので、傘を彼に借りました。その傘は今でも家に置いてあります。帰路の野良猫にその傘を睨まれながら、私は帰りました。

 

 その次の日、私はいつもの電車で大学へと向かいました。いつも同じ時間に乗る、少し背の低い男子高校生が視線をこちらに向けていることに気づきました。軽い挨拶代わりに微笑んでやると、その子は嬉しそうに会釈をしました。その時の生臭さと、鼻につくような酸味。きっと今もそこらに漂う空気みたいで、いつか私をその場所に連れていくはずです。甘いのか苦いのか、分からなかった。心の中にできた沼に下半身だけ埋まってしまったような。助けがないと出られないのに、誰も助けに来ないし、どこかでその沼に安心する自分もいた。嫌だった。彼じゃないし、あの男子高校生でもない。驕りを抱えた自分の自覚にも驕りがあったが、何より愛の矛先が自分に向くのが怖かった。一時、そんな気分でした。

 

 正直どうでもよかったのでしょう、この気持ちも何もかもが。しばらくしたら彼は私を捨てましたし、例の男子高校生もあんまり頑張らなくなりました。変わらないのは、私の右手中指にはまった指輪だけでした。これから先も変わらないのか、いつかこの指輪を外す日が来るのか。きっとこの街には、その答えはないでしょう。