新葉しあ

 

 雨が寒さに縮こまって、いち早く地の温もりに溶けようとするような元日。僕は古びた五円玉を強く握りしめて、長田神社の境内の細かな砂利を踏んでいた。鈴も緒もないこの神社では、人の口からの不快音を上塗りするものはなく、家族を連れて歩くような正月に仕事をしないような不精者によって、社内の静謐は削り落とされる。日本人は、普段寺社の違いも考えず、神を信仰しないくせして、こういった行事の際に関しての虫の良さは世界一とすら言えるだろう。かく言う僕も、その大きな集合に完璧なまでに抱擁されるのだが。

 

 前にいたご老人が横に逸れ、僕の参拝の番が回ってきた。肌寒さに身体を抱いていた両腕を横に直し、姿勢を正して一歩前に出る。賽銭箱に、ご縁を願って金属塊を弾き入れる。二礼二拍手。特筆する願いなし。無病息災、学力向上、金運上昇。恵比寿の神に祈るものかは分からないけど、セール品を買い物籠に詰め込むよう掌を擦り合わせながら乱雑に願い、先輩達と数ヶ月後の未来の後輩達の受験合格だけ少し強めに祈念して、最後に一礼。前例に習って右にズレる。横目で参拝客の人数を確認すると、凡そ五十人というところ。そりゃ騒がしいわけで。

 

 ガラガラとなる鈴の音を後に御籤で今年の運でも占おうかと授与所に足を向ける、と、空気が割れるような音がして、いや、少し待ってほしい。なぜ鈴の音。風が吹く速さで振り向く。まるで空気そのものが凍りついたような、そんな、今まででは考えられないような静けさ。ただ、存在しない鈴の乾いた叫びが辺り一帯を支配していた。

 

「は?」

 

 何かを考えるような顔で、あるいは楽しげに喋るような様子で、全ての人が動かない。壮大なドッキリ? モニタリング? TBS?  奇妙が過ぎる。そして気付く。無風。雪が、止まっていた。空中で、ケセランパサランが人を馬鹿にするように完全に静止していた。あまりの驚きに、現実自身が僕に受け入れられようとしていないように錯覚し、手を伸ばして雪を触ろうとして、それでも硬直して、手が動こうとしなかった。意味を理解できていない。

 

「空に黄色のお日様が、何度も何度も登ります」

 

 高い、機械のような声がして、心の臓が止まるような心地で、声の発生源を見ると、親と手を繋ぐ耳あてをした小さな子供がこちらを向いている。黒い、深い、虚空を見つめる目で、僕の目を以上の何かを見つめてきている。

 

「宴の席となる度の、蕾膨らむその姿。花咲く時ぞ嬉しかな」

 

 杖を着く、白髪の老人が、本堂の方を向いたまま、視線だけこちらを向けて言った。

 

「二十余八の負のものが、あれよあれよと飲み尽くす。皆の大息増えるこそ、アーモンド的振動が内なる静かを蝕んだ!」

 

「金の歯車を奉れ!」

 

 行列の参拝客が、顔だけをぐるりとこちらに向ける。目の奥だけが、ただ摺りたての墨のように深い。

 

 そして彼らは、子供のように矢継ぎ早に己の感情をぶつけるがごとく、

 

「結局はその程度のものだったのだろう!」「何が? 何が?」「全てを理解しておるくせして!」「何が? 何が?」「旅追うものは、永遠の道標! その線路からも外れたというのか!」「何が? 何が!」「そんなことも分からぬのなら、蒲公英の種子となって大空に飛び立つがいい!」

 

 メキメキと、メキメキと木の擦れる音が鳴る。崩壊の足音が近づいてくる。そして、均衡が崩れた。大きな、耳を塞ぎたくる轟音とともに本堂が崩れ落ちる。茅葺き屋根を支える古ぼけた柱が、膝を折って頭を垂れた。暴風が吹き荒れる。その屋根を突破ってたった一つ、鈍色の大仏が現れる。笹に括りつけられた色とりどりの御籤たちは、紙吹雪のようにコロイドと化した。緊張が解ける。蝋人形出会った人間達は、ピペットのように規則的に踊り出す。それはおそらくブリキ人形で、皆等しく笑っている、あまりに大きな立派な螺髪は、低くうねるような声で口遊んだ。

 

「慮ってこうすれば、それで満足するのだろ。うぬら嬉しきこと起これども、赤子もできることもせぬ。されば片手を捻るほど、何の痛みもありゃせんて」

 

「その通り!」「「その通り!」」「「「その通り!」」」「「「「その通り!」」」」

 

 鳥居の方向からビードロやチャルメラの音が聞こえ、屋台の白布が待っているのが確認出来る。不気味で不安定なこの世界は、きっと境内だけで展開されているものでは無いのだろう、こんなものは夢だ。白昼夢とか言うあれだ。だとしたら目覚めようとすればいい。だが、手の甲を抓っても、唇を血が出るほど噛み締めても、眼神経を伝導する情報にはなんの変化も与えられない。ならば、探すしかあるまい。元の世界に戻るための光る鍵を。

 

 老若男女のブリキ人形が、蒟蒻のような間接を曲げて伸ばして踊り狂いながら、僕を袋の鼠と変える魔法をかける。

 

「謝れ! と、神がそう仰った!」「謝れ!」「「謝れ!」」「私はそんなことを言っとらん!!

 

 眉が独りでに動いた。神。ここは神社だ。もしかして神は何かに怒りを食らっている。そしてその小間使いがそれを汲み取っいる。ならばそれはなんだ。神と仮定される幻覚の出処はどこだ。思い出せ。カギ括弧を抜粋しろ。恐怖に囚われるな、考えろ。

 

 枯れ木の指が僕の腕を掴みあげる。体が宙に浮く。胴上げわっしょい。紙吹雪は舞い続け、太鼓と笛がどんどこぴーひょろ。木々は揺れ、草花は歩く。日の灯る提灯が体をねじり、ここは軽車両を覗いて歩行者用道路。ああ、成程、理解した。

 

「ご無礼をお許しください、神様。去年は福をありがとうございました。失礼ながら、今年もどうぞ、よろしくお願いします」

 

 ……音が、病んだ。動きが止まった。正解だったか? 足元からぐにゃりと世界が歪んだ。体も歪む。渦に巻かれるように。

 

 そしてどこまでも底へと落ちて行く。

 

 

 

 気が付くレトロは失せていた。人は節度を持って騒ぎその程度すら心地よい。僕は戻ってきたのだ。

 

 強めの風が吹いた。ざわざわと木が揺れる。「⁉」白い紙が顔に張り付いた。手に取って広げると、それの面白いこと。

 

「御籤を引かなくてもそりゃそうか。神様はまだ御立腹のようで」

 

 ならば今は縁を結ぶ必要もあるまい。僕はおみくじを音を立てて丸めてポケットにしまい、本堂に向かって一礼した後、神社を後にした。

 

 二百円浮いたぜラッキー。