独り勝ち
雪村
孤独に、例えば百年生きられたところで、何が楽しいのだろうか。
息子の、未だ小さな手を握りながら白い髭をたくわえた老人は呟いた。子供は、まるで老成した大人のように笑って、老人の手を握り返した。
窓から見下ろす先には長蛇の列。その中の誰かはこの後長い付き合いになる。物好きな奴も多いものだ。
外では、雪が降り始めた。
長く息を吐いた老人は、無知の幸せか。と零した。
高熱を出して、仕事を休んだその日に会社が倒産して、熱の下がった翌日には社宅を追い出された。嘘のような、本当の話だ。現に昨日、俺の身に起きた。保険なんてあってないような弱小ブラック企業だったので、失業保険もおりてこない。
そして現在。家なし、仕事なし、頼るあてもなし、残金四百三円。我ながら酷い有り様だとは思う。
そんな時、見つけたのが『求人住み込み家政婦募集。男女問わず。ただし、長期間勤務できる人に限る。簡単な実験・研究の補助もお願いします』というような、求人広告だった。怪しいよなぁ。怪しすぎる。人体実験でもされそうな文言だ。そもそも、家政婦なのに男女問わずとは一体。
だがしかし、今の俺にとっては、天の啓示。応募したのがついさっきで、抽選があり、結果発表が一週間後だ。少なくともあと一週間。四百三円で、生き延びなくては。
才能のある人も大変だ。と、義理の祖父の眠る小さな石造りの宮殿を眺めて思った。くるりと回れ右をして屋敷の中に入り、今度は壁に掛けてある義理の父の肖像画を見る。
父は、少年の姿で笑っていた。
才能に巻き込まれる方も大変だな。と、思う。暖かな色で描かれている彼は大人の姿にまで成長する事ができないままこの世から消えてしまった。
長い長い廊下を歩きながら、僕はそうはなるまい。と、笑う。一族を滅ぼしかけた悪魔のような才能の恩恵に預かれたのは僕くらいだ。一人息子であった義理の父が後継を作ることができずに亡くなったので、賢才を買われた僕が遠縁を辿り、この家の養子となり、主人になる事ができたのだ。
そういえば、と足を止める。もう一人いたな。僕は長年この家に仕える執事について思いながら、一つ紙を開いた。
能力があったわけでも、お金があったわけでもない。そんな俺が選ばれたのは、ただただ運によるところだった。それも大切な要素だと、俺を部屋に案内した男は笑う。
今、目の前で優雅に紅茶などを淹れている彼は、当選通知を受け取ってのこのことやって来た俺をやたらと大きな屋敷の前で迎えた、自称執事だ。自称と付くのは、まだ、彼のことを執事と呼ぶ人間に出会っていないから。だだっ広い屋敷の中は閑散としていて、人の気配も、時間の経過さえ感じられないほどだ。自称執事が俺の前に紅茶を置いた。音もしない。彼の身に着ける懐中時計の秒針の音だけが、響く。カチ。カチ。
うるさい。執事だというのならもっと音の静かないい時計でも買えないのだろうか。
「さて、今日から貴方にこの家の仕事を頑張って頂くわけですが」
俺と揃えて一口紅茶を飲んだ自称執事がおもむろに話し始めた。
俺は慌てて背筋を伸ばす。
「はい。よろしくお願いします」
「秘書などの経験は?」
「ありません」
「ハウスキーパーの経験は?」
「ありません」
「何か得意なこと、自慢できることは?」
「四百三円で、一週間生活することができます」
自称執事が固まった。カチ。カチ。三秒後にようやく呆れと哀れみの視線が届く。嫌だなぁ。ギャグですよ。正確には三百九十六円。
頭を抑えながら、自称執事は言った。
「今日から貴方にはこの家の家事、執務の補助といった使用人としての仕事、加えて当主の行う研究の助手のような仕事を基本的に一人でしていただきます」
「一人、ですか。貴方は」
この広い家にもしや他に使用人はいないのだろうか。
と、思ったところで部屋に人が入ってきた。見るからに高級そうな服を着た、俺よりも少し年下のように見える男だった。
立ち上がり、男に椅子を譲りながら自称執事は言った。
「彼がこの家の現当主です。……あぁ、そうです。この家には私と当主だけが住んでいたのですが、私がこの仕事を続けることが、難しくなりまして。今日でこの仕事をやめさせて頂くことになったので、それで代わりの方が必要だったのですよ」
若い自称執事は、怪我をしているようにも病気をしているようにも見えない。なにか不幸でもあったのだろうか。
「こいつがボケ始めただけだから気にしなくていい」
コーヒーを渡されて腰を落ち着けた当主が唐突に話し始めた。
「君が今日から僕の研究を手伝ってくれるんだよな?」
「はい。……あの、ところで何の研究をされているんですか?」
当然、気になるのはそこだ。当主は自称執事を振り向いて、鼻で笑った。
「説明してなかったのかよ。やっぱりボケてるな、ジジイ」
「ジジイはやめて下さい。一気に老け込む気がする」
「僕が、というよりこの家が研究しているのは、不老不死についてだ。人間を不老不死にする薬は一応開発されていて、今は主に不老不死状態から元に戻す薬を開発しようとしている」
コーヒーを一口飲んで、彼は言った。
「と、言うわけで。お前にはその開発された不老不死の薬を飲んでもらう」
圧倒的に自分の味方が少ない状況で、信じられないことをさも当然のように言われると、人はまず、世界の常識を疑うらしい。
さて、ここは太陽系第三惑星地球の日本、俺が生まれた時から二十数年が経った俺の知っている世界で合っているだろうか。
「……いやいやいや。それって安全なんですか」
「安全かどうかわからないからお前が飲んでみるんだろう。ちなみに飲まなければ、お前、死ぬからな」
「はい!? 殺されるんですか! すみません。退職します。失礼しまし」
「先程飲まれていた紅茶に失礼ながら毒を入れさせていただきましたので、逃げても無駄かと思いますよ?」
逃げようとした俺のために扉を開けた自称執事がとんでも無いことを言い出した。慌てて吐き出そうにも、それはもう腹のなかだ。
ストン、と足から力が抜ける。
「その薬を飲めば、助かるんですか」
「はい。この薬による死亡例は過去ありませんので。私がいい例ですね」
「本当に不老不死になるんですか」
「わかりません。最初の薬は、不死の効果だけが現れ、二つ目は不老の効果だけが現れました。私はその二つを飲むことで一応、不老不死となっています」
選択肢なんて、初めからなかった。
「……飲みます。どれを飲めばいいんですか」
自称執事はにっこりと笑った。
「薬は当主の実験室にありますので、他の仕事の引き継ぎの後、ご案内します。それまでに死んでしまう事はないのでご安心ください。それから、同時に私も最後の実験がありますので、そこからは一人でお願い致します」
「勝手をお許しください。旦那様」
執事は小さな宮殿の壁に、そっと寄りかかった。あの雪の日の契約を破ってしまう事を、主人は許してくれるだろうか。静まりかえったこの場所でも、主人の返事は聞こえなかった。
「先に行って、お迎えの準備をしております」
この契約は破る事がないように固く誓って、執事は手に持った小瓶の中身を飲み干した。