挨拶の正体

 

トリトン 

 

「なぜ挨拶をするのか」

 

 一度自分に、あるいは周囲の人にのう尋ねてみると良い。はたしてどれだけの人がこの問いに納得できる答えを出せるであろうか。ある人は防犯の効果を期待してと言うかもしれない。またある人はそれが礼儀、マナーだからと言うかもしれない。しかし、防犯は知人に挨拶をする理由にならないし、礼儀として挨拶を行うのは自己目的化の危険性を認めることになる。ほとんどの人が――少なくとも私の周囲の人は――挨拶をする理由を知らないように思われる。にも関わらず、世界中で挨拶が行われ、学校教育でも広く挨拶が励行されているのである。私たちは、挨拶の目的を今一度、問い直さなければならないのではあるまいか。

 

 そもそも挨拶は、「おはよう」や「こんにちは」と言った声かけや、手を挙げる、頭を下げるなどの動作で構成される。これらは人間の間で交わされる以上、コミュニケーションではあるのだが、「おはよう」や「こんにちは」はどのような情報も持ってはいない。「おはよう」は「お早いですね」、「こんにちは」は「今日はよいお天気で……」の意味を持ってはいたが、現在ではすっかり失われてしまっている。多少昼に近づいていても私たちは「おはよう」と言うし、「こんにちは」と言うときに会話をさらに続ける気はない。このことは、声かけが、手を挙げる、頭を下げるなどの動作で代替されることからも分かる。挨拶は、コミュニケーションでありながら、情報の共有を伴わない不可思議な交渉であるように見える。実は、この挨拶のコミュニケーションとしての特異さこそが、挨拶の目的を理解する手がかりなのである。

 

 逆説的ではあるが、挨拶はコミュニケーションであり、その目的はコミュニケーションの例に漏れず、情報の共有である。つまり、挨拶は意味のない声かけでありながら、情報を共有するという目的を達成している。さらに言い換えれば、その情報は挨拶という形でコミュニケーションを『とろうとした』段階で、既に共有されているのである。その情報とは「私はあなたの存在を認識しており、かつ、あなたとコミュニケーションをとる意志がある」という情報だ。

 

 以上のことをふまえれば、挨拶が交わされる状況が知人とすれ違うときであることが理解できる。知人とすれ違い、相手の存在を認めながら挨拶をしないのは無視であり、「あなたとコミュニケーションをとるつもりはない」という意思表示になってしまう。私たちはそれを避けるために、「時間が許せばあなたとコミュニケーションとりたいと思っています」という意思表示をしなければならないのである。一方、見ず知らずの人に対していきなり話しかける必要は普通ないから、挨拶をする相手は知人に限られる。

 

 ここまで、すれ違うときに交わす挨拶について考察してきたが、挨拶はなにもすれ違うときにだけ交わすものではない。相手と話を始めるとき、あるいは別れるときにも挨拶を交わす。これらの挨拶は、すれ違うときの挨拶とはやや異なった意味を持つ。

 

 その意味を考えるために、そういった挨拶が行われるべき状況で、挨拶が行われなかった場合を想像しよう。例えば、来客が部屋に入ってくるなり用件を話し始める。あるいは、帰り道を一緒に帰っていた友人が、別れ道で不意に会話をやめ、別の方向に歩き出す。これらに共通するのは唐突さである。この唐突さは交渉から没交渉へ、没交渉から交渉への移行が起こるときに感じられるのである。となれば、挨拶の存在理由は、交渉と没交渉との変化を予告し、唐突さをなくすことだと明らかになる。コミュニケーションの始まりあるいは終わりを示す標識として、挨拶は交わされていたのだ。