宿無しの日の思い出

 

アルミホイル

 

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つまらない思い出の話です。

 

私は不幸でした。朝、昼、晩と飯を食うことは愚か、日に一度の食事さえままならず、定まった寝床もない。いわゆる宿無しでした。

 

そんな私でしたが、人並みに趣味がありました。夜のまちを気ままに散策することです。

 

夜のまちとは言っても、ネオンの光が煌めく華やかなものではありませんでした。瓦屋根の家々が立ち並び、時々こじんまりした肉屋、八百屋、魚屋などを見かけるような田舎町です。

 

それでも、私にとっての町は愉悦と興奮に満ちていました。

 

さて、前置きはこのくらいにして、そろそろ思い出の話をしましょう。

 

昼間とは一転して、音がなくなり、街灯の僅かな光に照らされる町を眺めるのは、筆舌に尽し難い感慨深さがあります。暗視には多少自信がありますから、暗い夜道でもどこに何があるかくらいは把握できますが、やはり街灯はありがたいものです。私は低い所はあまり好まないので、基本的に移動の際は、石垣の上か屋根の上を渡ります。人目に付いたら叱られてしまいそうですが、こんなことをしても誰もいないので問題はありません。しかしどこか後ろめたい気持ちだけは残り、その背徳感にまた夜遊びへの情熱を一層掻き立てられました。

 

その日は平和に石垣の上を散歩していたのですが、嫌な方に出会ってしまいました。

 

「よぅ坊っちゃん。久しぶりやのぅ」

 

全身を艶のいい黒絨毯に包んだ彼は、近隣のすねかじり共を束ねる筆頭すねかじりでした。恐ろしい低音声と大柄な体格が特徴的で、周囲からは熊と呼ばれていました。異名の強そうな響きに、彼自身も大層気に入っていました。

 

「ワシの縄張りに無断で足踏み入れたっちゅうことは、例のブツはちゃんと持って来とるんやろなぁ?」

 

 とてもすねかじりとは思えない強気な発言ぶりに、私はつい臆してしまい、反射的に頭を下げて謝罪の言葉を口にしました。

 

「申し訳ありません。ハチミツなんて、宿無しの私にはお目にかかる機会もありませんので」

 

 それを聞くなり彼は激しく憤り、大きな声で私に怒鳴りました。

 

「なめとんのかワレ。宿無しやろうが関係あらへん、ここ通りたかったらハチミツ持ってくんのが常識やろ!」

 

 彼の異名の由来は、身体的特徴ではなく主にハチミツが好物という変わった嗜好を揶揄されたものでした。彼は寄生している家で好物が貰えないので、このようにして他者からそれを巻き上げようとしていたのです。

 

 当然ですが、彼を怒らせてしまっては体の弱い私は逃げ帰らざるを得ません。ところがその日は、奇遇にもさらにもう一人の嫌な方にも鉢合わせてしまい、逃げ帰ることは叶いませんでした。

 

「随分身勝手な振る舞いじゃないか熊さんよ。君達の縄張りは生緩い家庭の温かいこたつの中じゃなかったかい? なぁ、腰抜け」

 

 私のことを腰抜けと呼んだ、温かそうな橙色の毛布で全身を武装した彼女は、近隣の宿無し連中を束ねる筆頭宿無し。丸まって眠る姿が色合い的に丁度みかんに似ているため、宿無しの口からは恐れ多くてそんなことは言えませんでしたが、すねかじり達の間ではそう呼ばれていました。内心では私もそう呼んでいましたが。

 

「おもろいのぅ。果物風情が熊に物言うんか?」

 

「卑しくハチミツを貪る姿を揶揄されてそう呼ばれていることを認識してから発言しろ」

 

「黙れ腐ったみかんが! 例えハチミツでもみかんよりましや!」

 

「勝手にほざいていろ。みかんとハチミツでは栄養価においてみかんが圧倒的に上位だ」

 

「味はハチミツが上や!」「味も断然みかんだな」

 

……と、そんな調子で二大勢力の首領同士が下らない小競り合いを始めた所為で、それに釣られて地域中の毛皮を纏った宿無しとすねかじり達が続々と現れ、ずらっと両者を取り囲みました。そして数十分もする内には、二大勢力が一堂に会し、一歩でも動けば乱闘が始まりそうな緊迫した雰囲気になってしまいました。楽しく散歩するだけだったはずが、なぜああなってしまったのか、未だに理由は分かりません。――ただ、一つだけ言えるのは、思いがけない不幸は、思いがけない幸運を招くこともあるようです。

 

「元はと言えばコイツがワシに舐めた態度とったんが悪いんや。兼ねてからお前ら全員シメたろうと思っとったけど、まずはコイツからや!」

 

「ふん、宿無しの根性を舐めるなよ。おい腰抜け、室内育ちの熊にガツンと言ってやれ」

 

「腰抜けって言われてる時点で根性なさそうやけど」

 

「……む、確かにその通りだ。腰抜けに根性なんて立派な気質が備わっているはずがない」

 

 両者は顔を見合わせ、何かに納得し合うように同時に頷き、私の方を向きました。

 

「今日のところはお前一人の犠牲で勘弁してもらえることになった。すまんが腰抜け、やはり私は、お前のことが好きになれん」

 

「可哀想になぁ。まぁ、しゃあないな。お前がワシに無礼を働いたんが悪い」

 

 熊が小さくその身を屈め、毛を逆立て、私に飛びかかる構えをとりました。もしあと数秒何も起きなければ、今頃私は命を落としていたかもしれません。

 

 バシャッ。その場に集まった者全員に、視界の外から突然冷や水が浴びせられました。

 

 訳が分からず腰を抜かしてしまった私以外、皆蜘蛛の子を散らすように逃げていってしまいました。

 

 しばらくしてから、なぜ水が浴びせられたのかを知りました。

 

 人間の仕業でした。人間が、私たちの喧嘩にまさしく水を差したのです。

 

 その人間は、水浸しになって冷えた私を、温かい手で優しく撫でてくれました。

 

その人は私を拾ってくれました。私はその日、晴れてすねかじりになりました。

 

 

 

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家の周りでは、深夜になるとニャーニャーニャーニャー猫が騒ぎだす。猫社会も色々大変なのかもしれないが、人間様からすればあいつらなんてただのニートとホームレスだ。夜くらい大人しくして欲しいもんだ。

 

ある夜、偶然猫の喧嘩に立ち会った。かなり大規模な抗争だったのか、二十匹くらいは集まっていた。日頃猫の鳴き声に悩まされていただけに、水をぶっかけてやった時の快感は忘れられない。

 

水をかけた猫の中に、一匹奇妙な奴がいた。

 

そいつは水をかけられたのに微動だにせず、じっとこちらを見つめていた。相当な馬鹿猫なのか、それとも余程俺に恨みがあるのか。あまりまじまじ見つめてくるものだから、俺も見つめ返してやった。しばらくそうして見つめ合い、とうとう俺が根負けして、猫の頭を撫でてやった。

 

「……参った。お前根性あるよ。先に逃げてった腰抜け共とは大違いだ」

 

 それ以上は何も言わず、俺は猫を拾いあげた。