幸福の蝶を君に

 

ヒース

 

 

 

「蘭ちゃん」

 

私を呼ぶ柔らかい声に、思わず頰が緩む。

 

「市川さん。おはようございます」

 

私の視線の先には、一人の男性。緩いくせ毛の黒髪を左手でかきあげ、おはようと言いながらにっこりと微笑んでいる。私の毎日の楽しみは、学校の行きと帰りに、この近所の花屋で市川さんと挨拶を交わすこと。市川さんはこの花屋を弟さんと二人で経営している。中学に上がって毎日この店の前を通るようになって、私は市川さんと出会い、それからずっとこの不毛な片思いを続けているのだ。

 

「いってらっしゃい」

 

……この挨拶は近所のおじさん的なあれで、それでも私には恋人同士のそれに聞こえてしまうことが虚しい。一回り以上年の離れた私を、市川さんがそんな風に見ることはないのだ。

 

「いってきます」

 

私はそう返すと、市川さんに背を向け、学校へと歩き出した。

 

 

 

 六時間目終了のチャイムがなる。授業をなんとか乗り切った私は、帰り道に起きるであろうことに胸躍らせていた。今日は私の誕生日なのだ。正直、誕生日なんてどうでもいい。でも、私が今日が誕生日だと伝えれば、市川さんはきっとあの素敵な笑顔でおめでとうと言ってくれるだろう。その笑顔がもらえればそれでいい。

 

「三島、ちょっといい?」

 

タイミング悪く、立ち上がった私に声をかけてきたのは、同じクラスの長岡だった。長岡とは今年初めて同じクラスになったが、なかなか気が合って、よく話している。

 

「誕生日だろ? おめでとう」

 

そういって長岡は、小さな紙袋を私に押し付け、部活だからと走り去ってしまった。誕生日なんて教えた記憶はないのだが、と首を傾げつつ、私は紙袋を開ける。中には可愛いらしい小包みと、手紙が一通入っていた。手紙を手に取った私は唖然とした。頰が紅潮していくのがわかる。その時にはもう、他のことは頭から抜け落ちていた。

 

 

 

「蘭ちゃん、おかえり」

 

市川さんが声をかけてくれる。あれからどう歩いてきたのかはわからないが、いつの間にか花屋の前まで来ていた。

 

「あ……。市川さん……」

 

私はその先の言葉を続けることができず、軽く会釈をした。

 

「可愛い紙袋だね」

 

市川さんがそう言った瞬間、私の中に一つの考えが浮かんだ。私はその考えを行動に移さずにはいられなかった。ぱっと明るい表情を作った私は、まっすぐに市川さんの目を見た。

 

「これ、誕生日プレゼントにって、クラスの男の子にもらったんです。中身は、小包とラブレターでした」

 

そこであえて言葉を止める私。市川さんの表情が少し動いた気がした。勝ちの可能性が見え、私は決定打を打つ。

 

「付き合おうかなって。いい人だし」

 

そして私は、現実を思い知らされることになった。それを聞いた市川さんが、嬉しそうによかったねと言うのだ。その姿は完全に近所のおじさんで、悲しさと同時に諦めの感情が湧いた。

 

「そうだ、ちょうどよかった。ちょっと待ってて」

 

市川さんはそう言って、店の奥に入っていった。市川さんの姿が見えなくなって、私の頰を熱いものが伝う。すると咳払いが聞こえて来て、弟さんに見られていたことに気がついた。私が慌ててそれを拭うのと同時くらいで、市川さんが店から出て来た。

 

「これ、今日キャンセル出ちゃってさ。もらってよ。蘭ちゃんの誕生日プレゼントと、恋人が出来たお祝いに」

 

そういって渡されたのは、ピンクの胡蝶蘭だった。

 

「こんな高価なもの、頂けません」

 

そう言う私を遮って、市川さんはどこか遠くを見ながら話し始めた。

 

「胡蝶蘭の花言葉って知ってる? 『幸福が飛んでくる』っていうんだ。花びらの形が、蝶に見えるかららしい」

 

そこまで言ってから、市川さんは私と目を合わせた。

 

「蘭ちゃんに幸福が飛んできますように」

 

有無を言わせない強い目に押され、私は胡蝶蘭を受け取った。そして市川さんは、ゆっくりと二歩後ろに下がる。

 

「蘭ちゃん、さようなら。お幸せに」

 

市川さんはそう言って私に手を振った。私は戸惑いつつも手を振り返し、市川さんに背を向けて歩き始めた。

 

 

 

「兄さんも、往生際悪いね」

 

俺は兄さんの肩を叩きながら言った。

 

「リストラみたいで嫌だなぁ」

 

そう言って笑う兄さんの顔が見ていられなくて、俺は水切りを始めたる。兄さんは大して面白くもない自分の言葉に笑い続けている。

 

「リストラはしないけど……。キャンセルなんて出てないだろ。兄さんの給料から天引きだからな」

 

俺がそう言うと、兄さんはより一層大きな声で笑い始め、俺はいい加減嫌気がさした。

 

「……あなたを愛しています」

 

俺がそう呟くと、兄さんの笑い声が止まる。やがて兄さんはゆっくりと口を開いた。

 

「僕みたいなおじさんより、同年代の子と付き合った方がいいに決まってるんだよ。蘭ちゃんのあれは僕とは違う、一時的なものだから」

 

そして兄さんは息を吐き、ぽつりと続けた。

 

「……でも、これくらいいいよね」

 

俺はそれ以上何も言わず、また兄さんも口を閉じ、閉店間際の店内にはハサミの音だけが響いていた。