影法師
賽子
まだ神様がいなかったころのお話。
この世には昼も夜もなく、陽と陰が混ざり合っていた。
そこではただ、光童子と影童子というふたつの靄のような存在が、遊んで暮らしていた。光童子は艶やかな長い黒髪を、影童子は腐臭のする、太くうねった髪をもっていた。光童子は影童子を深く愛し、影童子もまた、光童子を愛していた。
ある日、光童子は上のほう向かって飛び上がった。なぜだかわからなかったが、どうしようもなく惹かれてしまったのだ。その長い髪をなびかせて、高く高く上昇する。影童子はついて行くことができなかった。髪がひどく重くて、飛ぼうとすればするほど下のほうにどんどん引きずられてしまったのだ。帰ってきた光童子に、影童子は尋ねた。なぜ自分から離れてしまうのかと。光童子はただ上の空になって、その問いに答えなかった。
影童子は自分の髪が醜いから離れてしまうのだと思った。だから自分の毛髪を全て抜き取った。しかし、光童子は飛んでいってしまう。そしてとうとう、影童子は自分を置いて行ってしまう光童子に憎しみを抱き、抜いた髪はその怨嗟でうぞうぞと動き出した。光童子は虚な瞳でそれを眺めていた。やがてその髪が光童子の首を締め、引きちぎった。その首の断面から神様が生まれ、昼と夜がつくられた。そして、光と影は永遠に離れ離れになってしまったのだ。
そんな昔話は聞いたことないってみんな言うから、あたしも一緒になって、
「うそうそ。あたしの作り話」
って笑う。あたしたち島の人しか知らない昔話は、寂しい潮の香りがした。
故郷に別れを告げたのはもう二年も前のことになる。
あたしがはじめて島を出たのは、高校入試の日だった。そのあと、合格発表やら入学説明会やらで二、三度は舟で海峡を渡った。それまでは島から出たことがなかったし、他の人も一度だって島から出たことがなかった。
島のそとに住んで、高校に通うのを許されたのはあたしだけだった。
あたしはいいんだって。「光童子」だから。
「昼」を呼ぶために、島に閉じ込めていてはいけないんだって。
あたしたちの島は、イザナギとイザナミが作った日本列島とは違って、影童子の髪屑からできたって言われている。島にある井戸は、影童子の涙。島の人たちの髪の毛は太くてぬめぬめでちょっと変な臭いがする。なかでもあたしの親友だった影子の髪は、うぞうぞ動いた。まるで、影童子の怨嗟がこもってるみたいに。
影子……。
幽閉された不幸な子。そうでもしないと「夜」が永遠に続くって、島の人たちは本気で思ってる。でもそんなの嘘。
あたし、影子が完全に座敷牢に閉じ込められる前、といっても家から一度も出してもらえてなかったけど、そのころにこっそり影子を外に連れていったことがある。影子の青白い肌は、太陽の白い光によくなじんだ。
一時間くらい一緒にマリをついて遊んだ。午後二時。夜は、来なかった。
次の日、大人たちはあたしたちが外で遊んだのを知ってかんかんに怒った。一年後に影子は座敷牢に入れられる予定だったけど、予定を早めて、翌月の新月の夜になった。
影童子鎮魂の舞を舞うのは光童子として産まれてきたあたしだった。影子があたしをじっと見ていた。
あたしは最後まで舞うことができなかった。できるはずがない。あたしのせいで、あたしが連れ出したから影子は一年という時間を奪われてしまう。それなのにあの子はあたしに優しい眼差しを向けてくる。
あたしは冠やら衣やらを脱ぎ捨てて、影子に駆け寄った。あたしは影子を抱きしめた。薄い背中だった。いつも遠慮がちにあたしに触れる影子も、強く腕を回した。
でも、どれほど強く抱き合ったって、大人たちはあたしたちを簡単に引き剥がしてしまった。それがあたしたちがお互いの顔を見た最後になった。
あたしは毎日、影子の牢の入り口にこっそり通った。あたしは扉の隙間から、こっそり手紙を差し込んだ。影子は自由に動く髪の毛の先を少しちぎって、あたしに寄越した。その髪はひらがなの形になって、あたしに話しかけてくれた。声は出せなかった。気づかれたら、もっと厳重に閉じ込められて、もう二度とお話しできないから。
あたしが高校入学を機に、島を永遠に離れた日の、ずっと前のこと。
もうずいぶん昔の話。
あたし、たくさん勉強したら、島の人たちがどれほど間違ったことを信じているのか、知らしめてやろうって思ってた。こんな物語は出鱈目だって。影子にはたくさん励ましの手紙も書いた。
高校一年生の冬までは。
影子を外に出してやるための、古い歴史書や地学の勉強なんかよりずっと面白いことが、島のそとにはたくさんあった。初めは勉強の合間のちょっとした休憩のつもりだった。
男の子があたしの顔や髪を褒めてくれた。
一緒に遊びにいった。
他の女の子たちとも仲良くなった。
また遊びに行った。
一番好きな科目は数学。
そればっかり勉強するようになった。
影子のことをちっとも思い出さなくなったわけじゃない。あの男の子があたしのことを好きだって言ってくれたときは、影子の顔が浮かんだ。手を繋いだときは、影子を家から連れ出した日のことを、抱きしめられたときには、座敷牢に入れられる直前の、あの一瞬の抱擁を思い出した。女の子たちと遊ぶときには、影子も連れていってやりたいって思う。
でもその思いが、本当のあたしの思いなのか。影子の親友だったあたしが、あたし自身に影子のことを思い出すように義務付けているんじゃないか。影子を思うことは形式になっているのではないか。果たして、あたしはまだ、影子のことが一番大切なのか。
わからなくなった。
もう面倒くさくなった。
もういいやって、影子のことを考えるのをやめた。故郷も、大切な人も、存外簡単に忘れられるものだと知った。
そんな日々が続いた。
あたしは高三になった。
すると、あたしの髪の毛は、毎朝起きたら一束ずつ抜けている。髪の質も落ちた。ごわごわしていて、日に日に島の人たちと同じ髪になっていくように思う。いくらシャンプーをしたって、変な臭いがとれない。
男の子が、あたしから離れていった。
友達だと思ってたあの子たちが、寄りつかなくなった。
そしてやっと、影子のことを思い出した。
あたし、知ってた。影子がいなければあたしがあたしでいられないこと。あたしがいなければ影子が影子でいられないこと。
一時限目の数Ⅲの授業は、始まって十分もしないうちに眠ってしまった。
影子が髪の毛で、あたしを絞め殺す夢を見た。
〈お題〉
髪の毛を自由な形に出来る人
触手みたく動くのもあり