暴君
うすらい
家路は雨だった。
向かい風。斜めに打ち付ける大粒の雨。傘の意味なんてほとんどない。眼鏡が濡れて視界はほとびる。鞄と学ランが雨で随分重くなっている気がする。
イツキはゆるゆるとため息を吐く。マスクの中が湿る。
と、公園の前を通りかかって雨音の中に何かを聞いた。
「ふェェーン、えッエウ、ふェぇーん……」
奇妙な泣き声。
詰襟の首をよじって振り向く。
声は確かにしているが、姿はどこにもない。しかしイツキはその泣き声の主がどこにいるのかをすぐ悟った。
すべり台の下。泣くならあそこだ。
靴がぬかるむ地面に沈みこんで汚れるのも厭わずに、大股に歩み寄る。
すべり台の下には、確かに子供が膝を抱えて座り込んでいた。地面のイツキの影に気づいたか、子供はふ、と顔を上げる。
よくよく見れば、奇妙なのは泣き声ばかりではなかった。
トランプのジョーカーを想起させる二股帽子に、真っ黒なアイメイク。
イツキを見上げてぱちぱちと瞬く目からは涙が筋を引くが、膚は依然蒼白い。化粧ではないらしい。
「大丈夫?」
声をかける。小さなジョーカーはイツキの顔を、白眼のない真っ黒に潤む眼で映している。いよいよ不気味だ。
と、そのちいさな鼻梁をひくひくっと動かした。へくちっ。くしゃみが続く。
「さむい」
真っ赤なおちょぼ口をぷるぷる震わせながら、ジョーカーはそれだけこぼした。
「いやぁ、助かった。心優しきがきんちょよ!」
イツキの菓子パンを頬張りながら言うジョーカーは満面の笑みだ。ベッドに陣取り、ぬくぬくと布団に潜り込んでもにもにと頬を動かしている。
「ママが戻るまでには帰ってよ。いろいろ言われるとやっかいだから」
「いろいろ、いろいろだって?」
ジョーカーはばさりと毛布をめくって起き上がった。二股帽子がぶぅんと揺れる。
「抜かせ! 小僧は俗に言う『非りあ』であろ? いろいろやらかす根性もないくせに!」
「ちがっ、僕はそんなつもりで」
「しかし小僧! うぬは運がウンといいぞ」
黒曜石の欠けのような鋭い黒い爪が、唇に突きつけられる。イツキはやむなく言葉を飲み込む。
「お前に『非りあ』を卒業させてやる」
「は?」
反射的に声が出た。
「どれ、好きな女の一人や二人いるだろう。言うてみ?」
「いない」
「じゃあお前の知る中で、一番かあいい女は?」
ふっと脳裏を、その少女の横顔がよぎる。
大きくてよく動く目。元気に跳び跳ねるツインテールがふわらと空気を薙いで、甘い香りを振り撒くことを樹はしっている。その度に落ち着かなくなる自分もしっている。
「黙った! いるな」
にしし、と意地悪く笑うジョーカーの口許から八重歯が覗く。
「告白してみろ。絶対成功させてやるぞ」
「やれるもんならやってみなよ」
挑発九割九分で返事をする。残りの一分は酔狂な期待だ。
「何をぉ、可愛いげのない小童め。私を誰と心得るっ!」
「誰なんだよ」
ジョーカーは食い終えた菓子パンの袋をぱんっと布団に叩きつける。
「『恐怖』だ」
勿体つけて名乗ると、ジョーカー――『恐怖』はにたりと口角を吊り上げた。
「私は人を制することにかけてはピカイチだ」
神崎いおりは普通の少女だ。
勉強も運動も人並み。ハマる歌もアプリも有名どころ。人と違うところといえば、かなり鈍いところくらいか。彼女は鈍い。それこそ幸せなくらいに。
「僕と付き合ってください」
そんな彼女ですら、次に「さもなくば」と補うべきだと直感的にさとった。
校門。夏の万緑に輝く木の下。よく知らない同級生。
さもなくば。どうするんだろう。
あたしを殺すのかな。
突飛なはずの憶測が心にスッと馴染む。溶け込んで、からだの震えに変わる。あり得る。そう本能が告げている。そんなはずない。ありえないよ。それなのに。膝がじんじんしている。頭から血が引いていく。悪寒がする。黒い星が飛ぶ。くらくらする。
彼の目が自分を見つめるほど、腹に鉛が流し込まれるような気がする。学ランの袖から覗く拳が、今に殴りかかろうとしているように思われる。彼の汚れた運動靴が、自分の腹にめり込んでくるのが浮かぶ。
彼の像から発せられる、彼女の焦燥を煽ってやまないもの。彼女が屈服せざるを得ないもの。
恐怖。
「いいよ」
だから神崎いおりは、許しを請うたのだ。
「付き合えちゃった……」
「はん、この程度朝飯前よ」
布団にくるまりながら『恐怖』は鼻高々に笑う。この二日でイツキのベッドはすっかり彼の定位置だ。
「あんた凄いんだね」
「この程度で感心してもらっては困るぞ小童」
『恐怖』は小首を傾いでイツキの顔を仰ぐ。真っ黒な眼の中にイツキは自分の顔をちらと見た。何故か、背筋がヒヤリとした。
イツキは少し考えて、尋ねた。
「そういえば、なんであのとき泣いてたの?」
「あれか」
『恐怖』はくっくと喉をならして笑う。
「私の前の主君は、某企業の社長よ。奴との仕事は良かった。私があらゆる商売敵を手懐けて、あらゆる客を言いなりにした。あれほど楽しい仕事もなかった。だが奴は」
そこで黒い鋭い爪で空気に真一文字を引いて、首をかっきる真似をする。
「死んだ」
一呼吸分置いて続ける。
「健康そのものだった。ピンピンしていた。だが死んだんだ。理由は知らん。ともかく私は主を失って泣いていた」
そこで『恐怖』はその蒼白い未発達な両手でイツキの手を取る。
「だが今はお前が私の主君だ」
『恐怖』は手の甲に口づけた。その唇は酷く冷たかった。そこから寒気が広がっていくのがわかる。『恐怖』は凍てつく怖気を吹き込んだのち顔を上げた。薄い唇がめくれあがって、いびつな笑みをつくった。
「さぁ小僧。次はどいつをお前に従えようか」
イツキは黙っていた。
お題 「恐怖」