今関さん

布団

 

「そう。だから私、何されても怒らないし、恨まないよ」

 

 私は呆然とした。あの優しい今関さんがこんなに冷たいことを言ったなんて信じられなかった。誰だって、どう頑張っても怒ったり恨んだりしてしまうだろう。いくら何でも、完全に諦めるなんてそんな機械みたいなことは無理に決まってる。

 

隣の席の今関さんは、いつも笑顔で誰に対しても優しい。この前だって、二学期の学級委員長を押し付けられても笑顔で引き受けていたし、男子が掃除をさぼって今関さん一人に押し付けても、文句ひとつ言わずに一人で掃除を終わらせていた。そして、誰に対しても正直だ。宿題を忘れたときほかの皆は胡麻化したりしていたのに、今関さんはちゃんと正直に言っていた。誰も、今関さんが怒ったり嘘をついたりしたところを見たことがなかった。そんな今関さんは人気者だった。一部の女子は陰口を言ったりしていたが、その人たちにもやっぱり今関さんは優しかったし、屈託のない朗らかな笑顔を向けていた。その対応が、ますます今関さんを人気者にした。

 

 私はそんな今関さんと、一度だけ話したことがある。今関さんは一学期は飼育委員だったのだが、一緒に飼育委員をしていた友達に代わりを頼まれた時だった。放課後に飼育ゲージの前に来た私に、今関さんはあの柔らかい笑顔で「よろしくね」と言った。少し俯いて、ウサギの灰色の毛並みを優しい手つきで撫でいた今関さんを未だに覚えている。仕事が終わった後、今関さんは「今日は手伝ってくれてありがとう。また明日ね」と笑顔で手を振って、くるりと踵を返し、綺麗な歩き方で帰って行った。私は、その後ろ姿に見惚れてしまっていた。全然気取ったところなんてないのに今関さんの振る舞いは毅然としていて、けれど仕草の端々に優しさが滲み出ていた。

 

 お菓子事件があったのはちょうど二学期の始めの頃だった。クラスのリーダー格の桜田君という男子がお菓子を持ってきて、先生のいない休み時間に数人で騒ぎながら食べていたのだ。しかし、そうなるだろうとは思っていたが、先生にそれがばれてクラスで話し合いになった。その時に先生は「お菓子を持ってきたやつは誰だ」と聞いた。みんなも私も桜田君に報復でいじめられるのが怖くて、何も言わなかった。リーダー格の男子になんて逆らえっこない。それを見ていた先生は、突然、何を思ったか私に誰がお菓子を食べていたかを聞いてきた。みんながはらはらして息を潜めて、桜田君は黙ってろと言わんばかりに私を睨みつけていた。しんとした重い空気の中、みんなの視線が私に集まって、私は頭が真っ白になってしまった。耐え難い沈黙にとうとう私が「桜田君です」と言いそうになった時だった。急にがたん、という音がした。みんなが一斉にそちらを見ると、今関さんが立っていた。混乱した私の耳に、今関さんが何の躊躇いもなく「桜田君です」と言う声が聞こえた。クラスの雰囲気が凍り付いた中、今関さんは毅然とした表情を崩さず、そのまま椅子に座った。呆然とした中、私もふらふらと椅子に座った。そのあと桜田君は先生に呼び出されてこっぴどく叱られ、それでその時間は終わりだった。

 

 しかしその日以降、桜田君とその取り巻きから今関さんはいじめられるようになった。休み時間はいつも今関さんは一人ぼっちで本を読んでいて、周りからは今関さんの悪口を言ってげらげら笑う声が聞こえていた。誰も今関さんに話しかけなくなった。みんな心の中では桜田君をよく思っていないのに、誰も何も言えなかった。もちろん私も言えなかった。そんな中で涼しい顔をして本を読んでいる今関さんを見る私の胸は、罪悪感でいっぱいだった。私があの時言えなかったばっかりにいじめられてしまって、申し訳なかった。けれど、私が代わりにいじめられるのは嫌だった。私は今関さんとは違って、いじめられるのを怖がっている卑怯な臆病者だった。

 

 そのまま時間は過ぎて、二学期の終業式の日になった。放課後、私が日直の仕事で教室に残っていたら、今関さんが教室に来た。私は気まずさを覚えたが、今関さんは全くそうではないようで「まだ残ってたんだ。お疲れ様」とまたあの柔らかな笑顔で言った。私は戸惑いながらも、ありがとうと言った。それから、今関さんは私の隣の席に座って学級委員長の仕事をし始めた。気まずい気まずい沈黙が流れた。始めは耐えようと思っていたが、五分もしないうちにやっぱり耐えられなくなって、ついにずっと気になっていたことを聞いてしまった。

 

「なんであの時、桜田君だって言ったの? そのせいで今関さん、いじめられてる……」

 

「なんでって、あの時佐田さんが答えたら佐田さんがいじめられていたでしょう? 私、人がいじめられているのを見るのはもう嫌なの。それなら自分がいじめられた方がまし」

 

 私は今関さんを尊敬した。そんな風に思えるなんてやっぱり今関さんはすごい人だ。それと同時に少し自分が恥ずかしくなった。私はいじめられるのが嫌でおびえているだけの卑怯なやつだ。

 

「今関さんはすごいね……。私にはそんな勇気ないよ」

 

「勇気? 私は自分がいじめを見るのが嫌だったから、自分が見ないためにやっただけ。全部自分のためだよ」

 

 ますます自分が恥ずかしくなった。

 

「そんなこと言っちゃって。今関さん優しいのに」

 

 恥ずかしさのあまりにおどけてこう言ったら、今関さんはその後驚くようなことを言った。

 

「私冷たいよ。だって人に何の興味もないし、何も期待してないもの」

 

「えっ……」

 

「だからいじめられても平気なの。みんなが私をどう思おうと興味もないし、みんなが自分に優しくしてくれるなんて期待してないから」

 

 それは、優しい今関さんの口から出たとは思えないくらいに温度のない言葉だった。

 

「それって、みんなに対して色んなこと全部諦めてるってこと……?」

 

 

 

「そんなの、嘘」

 

 そう思って私は今関さんの方に顔を向けた。そうした瞬間、ああ、さっきの話は本当だったんだなと、腑に落ちた感覚がした。ふと、今関さんをまっすぐ見たのはこれが初めてだったな、と思った。今まで

 

もこんな目をしていたのだろうか。

 

「嘘じゃないよ。ほんとだよ」

 

 それほどに、今関さんの目は無機質で冷たかった。

 

 

 

 

 

お題 「恨み」