作家の殺人

音呼

 

 薄暗い森の中を進んだ。汗ばんだ前髪をかきあげるついでに腕時計を見ると、八時半過ぎを指していた。一時間の遅刻。軽く肩をすくめ、変わらないペースで進む。踏みしめる落ち葉が乾いた音を立てる。

 

 チャイムを鳴らすと、いつも通り由美さんが出てきた。軽く目を合わせて二人で微笑むと、背徳感でぞくぞくする。先生の部屋に通される間に由美さんからメモを受け取った。

 

「次の土曜日、いつものホテルで」

 

 胸ポケットにしまうと、先生のドアをノックする。返事のしないうちに開けると、先生はいつもの通り、こっちに背を向けて安楽椅子に座っていた。

 

「すみませんね、遅くなりまして」

 

 返事はもちろんない。昔の、俺が尊敬した先生の面影はない。どんな世紀の大作家であっても、こうなっては耄碌したお爺ちゃんに過ぎない。この人がもう傑作を出さないのは、編集者の俺のせいだと噂にでもなったら堪らない。

 

「どういった御用で……?」

 

 催促するように言うと、先生は紙の束を投げて寄越した。それから立ち上がり、歩いてくる。紙の表紙には、「悲哀」と書かれていた。

 

「久し振りに書いてみました。貴方の人生を変えることは間違いないでしょう」

 

 静かに微笑むと、ドアから出ていった。近くの椅子に座り、俺は目を通した。

 

 

 

 突如、背後からコンクリートで殴られるまでは。

 

 

 

 私は、奴が倒れても殴るのをやめなかった。血飛沫が飛び、原稿はもちろん周りの紙が赤く染まる。愉快であり、また痛快でもあった。胸ポケットのメモを見て笑った。奴とあの女の関係は知っていた。金目当てに近づいてきたことは容易に想像できた。入口で目をそらす女は、警察に来客は無かったと言うだろう。女への想いなどとうになかったが、だからといって黙認はできないのだ。落ち着いて地下の壁に開けた穴に奴を放り込む。コンクリートを注ぎ込み、時々人体のレプリカも埋め込んだ。木の葉を隠すならなんとやら、である。推理小説を書いていれば良かったな、と軽く苦笑した。

 

 

 

 約一週間後、警察が来た。奴が行方不明だと言う。神妙な顔を作り、何度も書いてきた台詞を口にした。「仕事熱心で良い方だ、心配で堪らない」また、家の前に設置している監視カメラの映像も提供した。もちろん奴は写ってないが。こんなに簡単なのか、と思うほどに警察は怪しむ素振りもなく帰っていった。

 

 一ヶ月後、事は急に動いた。とある雑誌が掲載した記事で、暗に私を犯人とする内容が含まれていた。マスコミは面白がり、どの番組でも取り上げられた。

 

 女は気が狂った。自白する、と喚く口を押さえながら考えた。人間は理性のある動物、と聞いたことがある。果たしてこの人達は理性があるのだろうか。担当編集者は何よりもこの女が欲しかったのか。女も然り。マスコミらは本当にこの事件を解決したいのか。そして、私は。冷静に分析すると、そもそもの発端は、馬鹿な自尊心ではないのか。編集者の嘲り、女の見下した態度に怒ったからではないのか。思えば、計画を立てた時から理由を考えていなかった。窮鼠が猫を噛むように、禽も困しめば車を覆すように、ただそうしないと生きていけないと思ったのだ。

 

 ふと視線を落とすと、女は引き付けを起こし、息絶えていた。目頭が変に熱くなって、はらはらと涙が滴った。一ヶ月、いや、ずっと以前から欠落していた感情が、空白を埋めるように堰を切って溢れた。私は、悲しかったのかもしれない。女は家族だった。男とは昔は良いパートナーであったと思う。マスコミや読んでくれた人達は、味方になって支えてくれていた。耄碌した身を恨み、忘れ去られた身を憎み、哀しみに突き動かされた自分のどこが冷静で落ち着いていたのだろう。疲れてしまった。体が軋んで震えるのは歳のせいだけでない事に今更気付いた。女の体を横たわらせ、私は終わらせることにした。煙たい部屋で最後に思うのは、誰が悲しんでくれるのか、であった。

 

 

 

 最後の頁をめくり終わると、手先がカサカサになっていた。心なしか震える指先を握りしめ、安楽椅子に座る先生を見る。

 

「え、ええと、すごく臨場感があると思いますね、ええ。あとは、その、そうですね、この場面は……」

 

 油物を食べた後のように口は回るのに、内容のある事が言えない。額に汗が吹き出て、前髪がぺたりと張り付く。先生が窓を開けると、涼しい風でぞわぞわした。

 

「あの、先生、この内容はつまり、その……」

 

 喋る内にどうしようもなく恥ずかしくなり、尻窄みになった。目を合わせることもできず俯く俺の肩に先生の手が乗った。

 

「私は、この作品を最後に引退するつもりです。最後に受け取ってくれますか」

 

 俺は立ち上がり、静かに頭を下げた。

 

 

 

 

 

お題 「嫉妬」