の鍵

仏谷山飛鳥

 

 はじまりの部屋に、年子の、兄弟がいた。双方は、もとは同じものであった。彼らが同じものであった時、ここには彼ら以外の何物も存在しなかった、いや、しえなかったのである。彼らの存在は唯一であり、それが全てだったのだ。

 

 二人は背中を合わせて座っていた。南に出た月を二人で眺めていたある晩のことである。「それ」は突如として現れた。彼らにとって「それ」が全ての始まりであり終わりであった。

 

 二人が着る白い衣に赤が滲んだ。弟が言う。

 

「これは何だ」

 

 しかし兄は口を固く閉じて何も言わない。弟が続けて尋ねた。

 

「一体これは何なのだ」

 

 賢い兄の沈黙が続くと、弟の頭からウジが湧いて出た。兄はそっと弟の頭を撫でると、それはたちまちにして消え去った。

 

 兄も兄で、この事態をどうにかして片付けようとは思っていた。しかし、その解決を急ぐと弟のように頭からウジが出てくることを、彼は知っていたのである。それゆえ、何も言えずにただ時が来るのを待っていた。それが一番だろうと考えたのだ。そうして、新たな事件が起こるまで、いくつもの年月が過ぎていった。

 

 しばらくの間、二人ともその小さな頭の中でその「赤」を弄りまわしていた。しかしある時、考えることを諦めかけていた彼らの身を覆ったその赤い衣が「黒く」染まり始めた。黒、それはこの世で最も恐ろしいものと彼ら兄弟は教わっていた。弟がおい、と声をかけると、背中越しの兄もおい、と答える。その黒は徐々に彼らの体を覆い尽くした。二人の衣の糸がそこから伸び始めた。その糸はいつになっても切れず、部屋の奥までずっと伸びていった。

 

 黒い糸は何年も何年も伸び続け、ついには部屋の南側の壁を覆うほどになった。その間彼らはその糸の伸びる様子を、経験したことのない恐怖とともに見つめていた。いつもは冷静な兄も、今回ばかりはかなり焦っていた。それを弟は背中越しに感じていた。それから彼らは恐怖で身動きも取れない、長い長い夜を迎えることになった。

 

 二人は恐怖で震えていた。額には冷たい汗が滝のように流れ、頭は例のウジで溢れていた。

 

 しかし暫くすると、つい先ほどまでのことが嘘であったかのように冷や汗も消え、ウジもいなくなった。夜はまだ更けたばかりであったが、これまで感じていた恐怖は次なる感情に移っていたのだ。その感情を二人は初めて経験した。黒い壁と自分たちとの間隙に生まれたその感情は、先の恐怖よりも強い力を持っていたようである。兄の目は並のそれとは全く異なり、その感情に完全に支配されてしまった。対して弟は、黒い壁の奥から、一本の赤い糸が伸びていることに気がついた。それを見た弟は兄に声を掛けたが、全く返事がない。兄は俯いて小さく何かを呟いており、ピクリとも動かない。弟はその場に立ち、壁との間に漂う重たい空気の先へと一歩を踏み出した。

 

「いいんだな」

 

 後ろで乾いた声がした。初めて兄の姿を見た弟は、彼の目から黒い涙が溢れていることに気がついた。

 

「いいんだな」

 

 同じ言葉を兄に返した。兄が小さく頷いた弟は壁の方へと体を向け、赤い糸に向かって手を伸ばした。

 

 壁の中に入ると、急に息苦しくなり、全身に強い刺激を感じた。しかし弟はそのまま赤い糸の続く先へと、一度も立ち止まることなく進んでいった。周りは黒く、自分の体すら見えないほどの闇であった。

 

 すると、どこからか兄の乾いた声がつぶやくのを聞いた。その時、弟の目の前に現れたのは、大きな白い扉と兄の姿だった。兄が叫んだ。

 

「ここを開けられるのはお前だけだ。その資格をお前は得たのだ。さあ行け。俺はここでおしまいだ」

 

 

 

 

 

お題 「不安」